道徳哲学史講義 ヘーゲル II 人倫とリベラリズム
第1節 人倫——義務の説明
第2節 人倫——国家
第3節 人倫——戦争と平和
第4節 第三の選択
第5節 リベラリズムの批判者としてのヘーゲルの遺産
第1節 人倫——義務の説明
pp. 503-
1
1-1
私は二つの思想を強調した。すなわち、和解としての哲学と、
倫理的なものが位置を占める場所としての人倫の役割とである。人倫とは自由を可能にしている合理的な社会的諸制度の全体の調和のことである。
本講では、意志の自由と、自由な人格としてのわたしたちの義務の本性とについての、ヘーゲルの説明を簡単に振り返ってから、人倫の第三の契機、つまり国家を取り上げよう。ここにおいてこそ、ヘーゲルのリベラリズムの諸契機と意図とは最も明瞭に理解されることになろう。 また、ヘーゲルが伝統的なリベラリズムから離反するように見える二つの領域についても見ることになろう。すなわち、諸国家の生における戦争とその役割に関する教説と、リベラリズムの批判者としての彼の遺産についてである。
2
2-1
前講のおもな論点を振り返ることから始めよう。主要なテーゼとして言及したもののひとつが、自由な意志は自分自身を自由な意志として意志する、というものである。この朦朧とした言い方が意味しているのはつぎの四つの事柄であることを私は示唆した。
(1) 自由な意志は、その内部において自由な意志が自由であることができるような政治的社会的諸制度を意志するのだということ。ここで諸制度とは、人間によって生きられるものとしての生の形式だと理解される。
(2) 自由な意志はこの政治的社会的諸制度の体系の諸目的を意志し、かつこれら諸目的を自分自身のものとして意志するのだということ。
(3) 自由な意志はこの諸制度の体系にまつわるさまざまな公共的特徴によって、自由な意志としてのそれ自身の概念へと訓育されるのだということ。
(4) こうして自由な意志を訓育する掛かる様々な公共的特徴は、それ自身、自由な意志の概念を十全に表現する諸目的なのだということ。
2-2
これら四つの条件はすべて必要とされる。どれも重要なものだが、〔とりわけ〕第四の条件の厳密な解釈は死命を制するものである。ある自由な意志の概念 —— 自由な意志の概念それ自身をかなり立ち入って論じ、かつ〔それを〕私的所有にかかわる法ないし権利のあり方の実例として考察することによって説明したところの —— を表現する制度ということで言われているのは、制度における自由を表現することであると見なされうるかもしれない。
政治的諸制度の体系と社会的諸制度の体系もまた区別されねばならない。一方は諸原理と諸規則、また多様な権力と作用とによって記述されうる抽象的な構造、他方は、世間の人々によって活力が与えられる、生の生きられた諸形式として理解される。
ここでは諸制度は、まさにそうした生の生きられた諸形式としてこそ理解されるべきなのである。
3
3-1
人倫に関する一般的な記述は、概観してきた主要なテーゼによって与えられる。ほかならぬ政治的社会的諸制度の体系こそが、この世界において自由の概念を表現しかつ現実のものとするのである。
ヘーゲルは「人倫とは〔それゆえ〕〔…〕現存する世界となるとともに自己意識の本性となった自由の概念である」(第142節)と述べている。 岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第142節 本文 p.13
人倫は、自由の概念であり、生ける善として存在する。この善は、自己意識のうちに、みずからの知と意欲とをもつとともに、自己意識の行為によって、みずからの現実性をもつ。このことは、自己意識が人倫的存在において自分の即自的かつ対自的に存在する基盤と自分を動かす目的とをもつのと同様である。
—— したがって、人倫は、現存する世界となり、自己意識の本性となった自由の概念である。
3-2
諸制度のこの体系は『法の哲学』第3部で叙述されるが、それはすこぶる錯綜したものである。〔しかし、〕ヘーゲルを読む者は誰でもみな、〔議論の〕おもな道筋が納得いく程度に明快な場合でさえ、理解しがたいパッセージに出くわすものなのだ。 〔『法の哲学』第3部の〕論述は第142節に始まり第320節を経て、国家の対外主権と国際的領域に論及して締めくくられる(第321節)。 (私見: 以下、『法の哲学』 下巻 第3部 の目次) 第3部 人倫 (第142節-第360節)
第1章 家族 (158)
A 婚姻 (161)
B 家族の資産 (170)
C 子どもの教育と家族の解体 (173)
家族の市民社会への移行 (182)
第2章 市民社会 (182)
A 欲求の体系 (189)
a 欲求および充足の様式 (190)
b 労働の様式 (196)
c 資産 (199)
B 司法 (209)
a 法律としての法 (211)
b 法律の定在 (215)
c 裁判 (219)
C 行政と職業団体 (230)
a 行政 (231)
b 職業団体 (250)
第3章 国家 (257)
A 国内法 (260)
Ⅰ 国内体制 (272)
a 君主権 (275)
b 統治権 (287)
c 立法権 (298)
Ⅱ 対外主権 (321)
B 国際法 (330)
C 世界史 (341)
第156節の補遺でヘーゲルが示唆する二つの選択、つまりヘーゲル自身の理論とホッブズのいわゆる個人主義的なアトミズムとのあいだに、カントの社会契約説が第三の選択肢として位置づけられている点に注意しておきたい。この点についてはあらためて立ち戻るつもりである。 岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第156節 本文 p.30
人倫的実体は、自己意識の概念と一体となった対自的に存在する自己意識を含むものとして、家族および国民という現実的な精神である。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第156節 補遺 pp.30-
《具体的現実性としての人倫的なもの》
人倫的なものは善のように抽象的ではなく、むしろ強い意味で現実的である。精神は現実性をもつ。そしてこの現実性の偶有性がもろもろの個人である。それゆえに、人倫的なものにおいては、つねに二つの視点のみが可能である。
つまり、実体性から出発するか、あるいは原子論的な手続きを踏むことで個別性を基礎として、そこから上昇するかのいずれかである。
後者の視点は没精神的である。というのは、この視点は単にひとつの合成物にゆき着くにすぎないのであるが、
精神は個別的なものではなく、個別的なものと普遍的なものとの統一だからである。
4
4-1
手はじめに、カントによる義務の理解との重要な対照について触れよう。 見てきたように、カントは正義の義務と徳の義務とを、定言命法とその適用手続きとを介して知られている道徳法則によって与えられるものと見なす。 正義の義務は、目的を促進するために用いうる手段を制限する。
他方、徳の義務は、義務として追求すべきであってなんらかの重みが付与されるにちがいない諸目的を特定する。
〔ところが〕ヘーゲルの見解は著しく異なっている。カントの意味で言うなら、ヘーゲルはそもそも義務の教説をなんらもちあわせていないのだ。 人倫についての彼の説明は、政治的で社会的な生の多様な形態を叙述している。ヘーゲルが言うには、これらの形態は主体にとって疎遠なものなのではなく、むしろ、 「主体は、それらが主体自身の本質であるということについて精神の証を与えるのであり、この本質は、主体がそこにおいておのれの自己感情をもつほど本質なのであり、そこにおいてこそ主体が、おのれ本来の境地において生きるほどの本質なのである。—— 主体の〔かの諸形態にたいする〕この関係は、直接的であって、信仰や信頼の関係さえよりももっと同一の関係なのである」(第147節)
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第147節 本文 p.17
他方においては、人倫的実体やその法律や権力は、主体にとって疎遠なものではないのであり、主体は、これらが自分自身の本質であるということの精神の証言をあたえる。 —— 主体は、この本質において自己感情をもち、自分から切りはなしえない自分の適所エレメント〔境位きょうい〕としての、そこに生きるのである。 —— これらと主体との関係は直接的であって、信仰や信頼の関係などよりはるかに同一的なのである。 「倫理的義務論は〔…〕それゆえこの第3部のこのあとに続くところの、倫理的必然性の円環の体系的展開である。この叙述が〔すなわちカントの〕義務論の形式と違うのは、ただ次の点においてだけである。すなわち以下の叙述においては、倫理的諸規定は必然的諸関係であることがあきらかとなるのであって、あきらかとなればそこで立ち止まってしまい、そのうえさらにこれらの倫理的諸規定のひとつひとつに『それゆえこの規定は人間にとって義務である』という結語は付け加えられないという点である」(第148節 註解) 岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第148節 註解 pp.18-
倫理的義務論、すなわち客観的に存在するものであって、道徳的主観性という、何ものも規定しない空虚な原理において把握されてはならない義務論は、それゆえに、人倫的必然性の円環の体系的展開であって、これが以下、第3部において論じられる。この叙述が義務論の形式と異なるのは、ただつぎの点である。すなわち、以下においては、人倫的諸規定が必然的な諸関係として現れ、そこにあくまでとどまっており、これらの人倫的諸規定のそれぞれに、「かくしてこの規定は人間にとって義務である」という後続文が付加されることがないということである。
〈略〉
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第148節 本文 p.18
人倫的実体やその法律や権力は、このような実体的諸規定としては、個人にとってその意志を拘束するもろもろの義務となる。そのさい、個人は、主観的なもの、みずからにおいて無規定的なものとしても、あるいは特殊的に規定された〔もの〕としても、人倫的実体やその法律や権力からは区別されており、したがって、みずからの実体的なものとしてのこれらへの関係のうちに存している。
倫理的義務論
岩波文庫『法の哲学』下巻 訳注 (12) p.377
ヘーゲルは手書きで、「倫理的 Ethisch —— 道徳的 moralisch の代わり —— 人倫的 sittlisch 」と書き入れている。一般の義務論と区別して、ヘーゲル固有の人倫 Sittlichkeit の立場での義務論を倫理的義務論と呼んでいるのである。
義務
岩波文庫『法の哲学』下巻 訳注 (12) p.377
ヘーゲルは手書きで「義務 —— 法、人間の意志の定在である」と書き入れている。
4-2
義務は制度的背景の説明のうちに潜在的に含まれているのだから、「人間にとって義務だ」といったことをわざわざ付け加える必要はない、といううわけである。
ヘーゲルにとって義務は、いまだ規定〔=決定〕されていない主観性ないし自然の意志〔わたしたちの自然な欲求から生じる意志〕だけを制約するものとして現れる。だから、自分自身を自由な意志として意志する自由意志にたいしては、人倫の諸制度は、その本質をこうした意志として表現するのであり、個人の解放 Befreiung を義務において開示するのである(第149節)
(a) この解放は、たんなる自然の衝動に従属してしまうことからの解放であり、あるいは、一般にあるべきことと、あってよいことについて道徳的反省に凝こらさざるをえない場合に、わたしたちが経験する意気阻喪そそうないしプレッシャー Gedrücktheit からの解放である。 (b) この解放はまた、いまだに決定されていない主観性からの解放であり、かつ客観的な規定性に到達し損なって現実性を欠いたままでいることからの解放である。これらと対照して言うなら、わたしたちは、人倫の形態によって与えられた義務において、個人として実体をともなった自由を獲得するのである。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第149節 本文 pp.19-
拘束的義務は、もっぱら無規定的な主観性ないし抽象的な自由を、さらには自然的な意志の衝動や、自分の無規定的な善を自分の恣意によって規定するような道徳的意志からの衝動を、制限するものとしてのみ現れうる。
しかし、個人は義務のうちでむしろみずからの解放を手に入れる。つまり一方では、個人が単なる自然的衝動のうちにあるという依存性からの解放を、同様に個人の主観的特殊性として、当為や許容されることについての道徳的反省のなかでうける重圧感からの解放を、他方では、行為の定在や客観的に規定された状態にいたらず、自分のうちに現実化しないままにとどまる無規定的な主観性からの解放を手に入れる。義務において個人は実体的自由に向かって、みずからを解放するのである。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第149節 補遺 p.20
《自由への前進としての義務》
義務はもっぱら主観性の恣意だけを制限し、主観性が固守する抽象的な善のみと衝突する。ひとびとが、自分たちは自由であることを欲するというとき、これが意味するのは、さしあたっては、自分たちは抽象的に自由であることを欲するということにすぎない。そして国家におけるいかなる規定も分節的編成も、この抽象的な自由の制限とみなされる。そうであるかぎり、義務は、自由を制限するものではなく、単に自由の抽象化をすなわち不自由を制限するものにすぎない。義務は本質にいたることであり、肯定的な自由を獲得することである。
5
5-1
だから理性的で活気ある人倫において、より具体的な義務とは何であるのか、有徳であるためには何をしなければならないか、といったことを述べるのはたやすい。およそなすべきことは、わたしたちの置かれた状況についての周知かつ明示的な教えを履行することに尽きる。つまり夫ないし妻として、教師ないし学生その他として、何が義務であるのかを自問することである(第150節)。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第150節 本文 p.20
人倫的なものは、これが自然によって規定された個人的な性格そのものに映しだされている場合は、徳である。そしてこの徳は、個人が帰属する諸関係のもろもろの義務に個人が単純に適合していること以外の何ものも示さないかぎり、誠実さである。
すると、徳とは実直さ Rechtschaffenheit のことだとわかる。人倫という生の諸形態によって、つまりわたしたちの地位 station とそれにともなう義務とによって、わたしたちに関して要求されてよいのは、とりもなおさずこの〔実直さという〕普遍的な性格をもつことである。実直さの種々の側面は諸徳と呼ばれてよい。成熟した倫理的秩序というものにおいては、倫理的諸関係に適合的な体系が生の諸形式の形をとって発達してきたわけだが、
そこで語の固有の意味での徳が「ところを得て現実にその力を発揮するのは、これらの諸関係が非常事態に陥ったり衝突したりする場合だけである」(第150節 註解)
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第150節 註解 pp.20-
〈略〉
諸関係が完全に展開し、現実化しているような現存する人倫的状態のもとでは、本来的な徳がそのところをえて、現実性を示すのは、もっぱらその諸関係の通常ではないあり方や衝突においてだけである。 —— しかも、それが真実の衝突の場合にかぎってである。
〈略〉
5-2
この種の秩序においては、生じてくる義務の衝突などというものは、その秩序を形成している諸制度の意味が了得された途端に解消されうる —— たしかに明快でない回答しか得られない場合もあるとは言え —— ことが、しばしばなのである。〔ソフォクレスの語るクレオンとアンティゴーネのあいだの葛藤を考えて欲しい〕
ソポクレス(古代ギリシャ語: Σοφοκλῆς, ラテン文字転写: Sophoklē̃s、紀元前497/6年ごろ – 406/5年ごろの冬)は、現代まで作品が伝わる古代ギリシアの悲劇詩人。アッティカ三大悲劇詩人の一人。
生涯で120編もの戯曲を制作したが、殆どが散逸し、完全な形で残っているものは『オイディプス王』など7編にすぎない。
そのうちの1編が、その『アンティゴネー』
本劇におけるアンティゴネとクレオンの対立は、即ち「神の法」(ピュシス)と「人間の法」(ノモス)の対立である。
クレオンは自らが布告した禁令が無視されたことに対し、「祖国よりも身内を大切にする者を軽蔑する」旨を表明している。これは、為政者という立場にあるクレオンが、自分は「私事よりも公事、政治、国事行為を優先する立場である」ことを表明するのと同義である。クレオンは常に現実的で政治的なものの考え方をする。例えば、ポリュネイケスの埋葬の犯人が発覚する以前に、埋葬の動機は、王になった自分を失脚させようという政治的な陰謀であると考えている。彼の考えはあくまで人間の法律に従った、きわめてノモス的なものである。
対してアンティゴネの行動の動機は自然の掟、神の法にしたがった、ピュシス的なものである。彼女は兄を埋葬することは自然なことであると考えており、また民衆もそれを支持するだろうと言っている。さらに、埋葬の犯人が発覚する以前に、民衆の代弁者たる長老(コロス) が「(埋葬は)神がしたことかもしれない」と発言することによって、彼女の意見は強く支持される。さらにハイモンがクレオンに伝える「民衆達の噂」もそれを後押しする。
しかし、〔近代におけるような〕成熟した倫理的秩序にあっては、当節のたいていの most of time 深刻な衝突など何とかうまく回避されてしまうだろうから、そうした衝突は例外的なものとなろう。ヘーゲルの考えでは、近代的な生にあっては徳をめぐるヒロイズムの存在する余地もその必要もほとんどない。このことは、近代的な生の長所のひとつであり、つまりわたしたちの自由の一側面なのである。
5-3
以上、道徳的義務に関するヘーゲルによる説明と、人倫の諸形態によってそれが生じてくるその仕方とに言及してきたわけだが、それは何よりもまず、彼が政治的社会的諸制度の演ずる根本的な役割を強調していることを示すためであった。
最初に、生の諸形態としてのそれら諸制度に関する説明がなされねばならない。このアプローチはカントによるアプローチにたいして鋭い対照をなす。カントは道徳法則から着手するからである。
わたしたちはまた、ヘーゲルはつぎのように述べているのだと理解する必要がある。すなわち、義務が自由を表現するものとしての人倫によって与えられる以上、そのように理解された義務は —— ヘーゲルの言葉によれば —— わたしたちの自由の、つまりはわたしたちが解放されていることの、一側面なのだと。
わたしたちは個人として人間世界における自分の持ち分をわきまえている。そして、よく義務を果たしたり、良き夫や妻なり父や母なりであったりすることなどによって満足し、幸福を得る。人倫という形での生の諸形態においては、義務と幸福とのあいだ、ないし義務と傾向性のあいだには本質的な衝突はまったくないのである。カントの陥った誤りの一部は、それがあるかもしれないと考えたことである。
第2節 人倫——国家
pp. 508-
1
1-1
ヘーゲルがリベラルな伝統に立脚しており、自由に関するリベラリズムとでも言ってよいものを表現しているのだということを述べてきた。その概略をヘーゲルの表現を用いて言うなら、自由とは、公民の基本的なさまざまな自由を保証しかつこれを可能にするような、政治的社会的諸制度の体系として理解されるものなのである。
しかしながら、政治に関するヘーゲルの教説はごく最近にいたるまでひどく誤解されてきた。長いあいだ、『法の哲学』は1820年ないしそれ以降のプロイセン国家を正当化する試みとして読まれてきた。ヘーゲルはドイツ帝国主義やナチズムと結びつけられてきさえしたのだ。
とはいえ、ヘーゲルは穏健なリベラルであり近代的立憲国家の擁護者だったのだと主張する論者〔「ヘーゲル中央派」〕はつねに存在した。最近〔『道徳哲学史講義』の実施された時期 1970年? における〕50年内外では、この主張は英語によるヘーゲル研究文献における一般的見解となるにいたている。
1-2
ハイデンベルク首相の改革的行政のもとで1815年、プロイセン国王フリードリッヒ=ヴィルヘルム三世は国民にたいして成文憲法を欽定することを約束したが、1819年には保守派の政治的勝利によってこの約束は履行されないことが確実となった。
この年よりまえに、ハルデンベルクと進歩的内相ヴィルヘルム=フォン=フンボルトは二院制の身分制議会を想定した憲法草案を作成していたが、それはヘーゲル自身の構想にも似たものであった。
現行法のもとでは世襲貴族だけがプロイセン将校団に加入し、より高度な市民的役割を果す —— つまり政治〔ヘーゲルのいわゆる政治的国家(『法の哲学』第267節)〕に参与する —— ことができた。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第267節 本文 pp.207
観念性における必然性は、理念のそれ自身の内部における展開である。それは主観的実体性としては政治的志操であり、客観的実体性としてはこれとは区別された、国家の有機的組織、すなわち本来の意味での政治的国家とその国内体制である。
補遺のタイトル 《制度としての国家》
ヘーゲルの説く理性的な vernünftig 国家においては、それとは対照的に、すべての公民が軍務ならびに市民的役務に参加する資格を持つのである(第271節、第277節、第291節)。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第271節 本文 p.238
政治的国内体制は、第一に国家の有機的組織であり、国家の有機的生命の自分自身への関係における過程である。この関係において、国家は、自分自身の内部でみずからの諸契機を区別し、それらを展開して、存立させるのである。
第二に、国家は個体性として排他的一者であり、この一者は、したがってもろもろの他者と関係し、それゆえ、その区別をそとへ向けるとともに、この規定にしたがって、自分自身の内部に存立する諸区別ををそれらの観念性において定立する。
政治的国内体制
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 訳注 (38) p.420
政治的国家体制の「政治的」ということばは、家族、市民社会の水準とは異なる国家の水準での、ということをさしている。
国家有機体論
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 訳注 (38) p.420
ここに国家有機体論の基本規定が示されている。有機体であることは、組織が自分自身に関係する過程であり、その諸契機を区別し展開させながら、それらをあくまでも全体の構成契機の位置に置くこと〔観念性 Idealität 〕であり、そのようにして排他的統一を保つということである。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第271節 補遺 p.239
《文民権力と軍事権力》
〈略〉
内部的国家そのものは文民権力であり、外部への方向は軍事権力である。
〈略〉
この両側面が平衡を保つことが、国家の志操における主眼をなしている。ときには、ローマ皇帝とその近衛兵の時代におけるように、文民権力はまったく消滅してもっぱら軍事権力に依存し、ときには現代におけるように、すべての市民が兵役の義務を負う場合、軍事権力はただ文民権力から発生することになる。
「軍事権力はただ文民権力から発生する」
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 訳注 (40) p.421
〈略〉
ここで、帝政ローマにおける近衛兵との比較において、〔徴兵制による〕国民皆兵が、軍事的独裁や貴族的特権に抗して、文民権力の確立と結びつくとヘーゲルは明言している。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第277節 本文 p.256
〔β〕国家の特殊的な職務および活動は、国家の本質的諸契機として国家に固有なものであって、これらに従事し、これらを機能させる諸個人に、その直接的人格性によってではなく、ただ彼らの普遍的で、客観的な資質によって結びつけられており、それゆえ、特殊的人格性そのものとは、外面的で、偶然的な仕方で結合されている。国家の職務および権力は、それゆえ、私的所有ではありえない。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第277節 補遺 pp.256-
《国家の職務への採用》
国家の活動は諸個人に結びつけられている。しかし諸個人は職務を処理する資格を、彼らの自然的あり方によって認められるのではなく、彼らの客観的資質にしたがって認められるのである。能力、技能、性格は個人の特殊性に属する。個人は教育されて、特殊な職務に適するように陶冶とうやされなければならない。 それゆえに、官職は売却されることも相続されることもできない。フランスでは、高等法院の席がかつて売り買いされていた。またイギリスでは 〈以下、略〉
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第291節 本文 p.286
統治の職務は、客観的で、その実体にしたがってそれだけですでに決定された性質のものであるとともに、諸個人によって遂行され、現実化されるべきものである。この両面のあいだには、いかなる直接的で、自然的な結合もない。したがって、個人は自然的な人格性や生まれによってこの職務に就くように定められていはいない。個人をこの職務に就くように定めるための客観的契機は、個人の能力の認知と証明である。 —— この証明は、国家にはその要求を保証し、そして同時に唯一の条件として、すべての市民には普遍的身分に就く可能性を保証するのである。
ヘーゲルの構想する国家は、1820年のプロイセンにではなく、もしも改革者たちが保守勢力を打ち負かしていたならば実現したであろうプロイセンに通じている(注釈1)。
(注釈1)
ジェイムズ・シーハン『ドイツ史』 James Sheehan "German History 1770-1866"
1807年にハイデンベルクによって記された覚書からドイツの改革者たちの抱いたもろもろの期待の要点がわかる。ハルデンベルクが改革の目的を定義して言うには、それは、
「積極的な意味での革命であって、人類を高貴さへと導き、下部または外部からの暴力的な衝動によってではなく政府の叡智によってなされるべきものである。〔…〕君主制政府における民主的諸原則 —— それは進むべき時代精神にとって適した形式であるように私には思われる。」
シーハンのコメントによれば、ハルデンベルクが「民主的」という言葉に託しているのは、経済的自由と社会的解放、つまり、すべての有能者への専門的役職の解放、ユダヤ教徒への宗教的寛容ならびに市民としての解放という意味での自由 Liberty 、言論・教育の自由といった意味内容である。
公民が民主的諸制度に参与し能動的な役割を担うことについて言えば、彼は代議制には無関心であった、それについては不確かな知識しか持っていなかったように見える。
自由とは、経済的社会的領域 ——ヘーゲルの言う市民社会 —— における諸個人の自由を意味した。この領域には公共的な内政問題や外交政策がつきものであるが、それを処理するのは国家とその行政機関であって、公民はその一員であることができたのである
2
2-1
ヘーゲルの説く国家の主要契機は、制定法に始まって、つぎのとおりである。
2-2
国家は三種の契機ないし権力をもつ。
(a) 君主制
君主制によって個別な契機が与えられる。
公務員は世襲制であるが、このおかげできまぐれな仕事が避けられ、選出制によって生じるであろう〔在任期間だけ仕事をするといった〕契約的な側面が取り除かれる、とヘーゲルは考えている。君主は行政官の任命とか宣戦のような国家行為とかの最終決定をおこなうけれども、専門職の行う助言によっていつも導かれる。
「客観的な面は法律にのみ帰属するのであって、君主はただこの法律に主体的な『われ意志す』を付け加えさえすればいいのである」(第280節 補遺)。ここから立憲君主制が生み出されてくる。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第280節 補遺 pp.270-
《君主の個人制》
〈略〉
完成した有機的組織においては、ただ形式的決定の頂点〔と、激情に対する自然的堅固〕だけが問題である。〔だから、君主に客観的諸性質を要求するのは正当ではない。〕そして、君主としては「よし」といい、最後の仕上げをおこなう人間のみが必要である。
〈略〉
「よし」
岩波文庫『法の哲学』下巻 訳注 (72) p.427
自分のまえに提出された決定がいかなるものであるにせよ、ただ「よし」というのが君主の仕事である。ということは、君主は、「否」とはいえないということでもある。
(b) 統治権
統治権は特殊な契機であるが、それはこの権力が特殊的なものを普遍的なもののもとにもたらすからである(第287節)。この権力は法と君主の決定とを特殊な諸事例に適用するものである。この権力は行政事務、司法、警察その他多くの権力からなっている。これらの役職はすべて能力ある全公民〔男子〕に開放されるが、この点はヘーゲルが支持した諸改革のひとつの眼目でもある。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第287節 本文 pp.280-
君主の決定を実行し適用すること、一般的には、すでに決定されたこと、現行の諸法律、諸組織、共同的な目的のための諸施設等々を継続的に機能させ、保持することは、決定そのものからは区別される。この包摂の職務一般を、、統治権がみずからのうちに包括している。
この統治権のもとにはまた、「司法権」「行政権」も包括されている。これらは市民社会の特殊的なものにより直接的に関係して、これらの諸目的のうちで普遍的利益を適用させるのである。
(c) 立法部
つぎに来るのが立法部であり、普遍的な契機をなすものである(第289節-第320節)。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第289節 本文 p.282
普遍的国家利益と法律上のことがらをこれらの特殊的法〔権利〕のうちで確保すること、またこれらの法〔権利〕を普遍的国家利益に引き戻すことは、統治権の代理者による配慮、監督を必要とする。これらの代理者は、執行官僚および、審議をなす、そのかぎり合議体的に構成された上級諸機関であり、これらの期間は、君主直属の最高諸頂点〔最高審議(輔弼ほひつ)職〕のもとで合流するのである。 君主直属の最高諸頂点
岩波文庫『法の哲学』下巻 訳注 (86) p.430
ヘーゲルは、〔1807-1808年の〕ハインリヒ・フォン・シュタインの改革案路線に沿って、統治組織の構造化を図っている。シュタインは、国家全体にゆきわたるそれぞれの管轄事項に責任を負う、内務、財政、外務、軍事、司法の各大臣からなる合議体を導入しようとした。これは、国王と直接結びつくものとされていた。
たいがいの人民 —— とはいえ農民や労働者はここから除外されるし、当時その居場所は家族だ(第166節)とされた女性も除かれる —— は国家のこの部分に代表者を送ることになる。さらに付け加えるなら、公民各層は、各人が原子に見立てられるような個人の寄せ集めのなかからではなく、各階層のメンバーのなかから代表者を選出するのである。ヘーゲルは三つの階層を列挙している。
(ⅰ) 世襲的な土着の郷紳であって、彼らは個人として上院に議席を有する。
(ⅱ) 営業階層
(ⅲ) 公務員である普遍的階層〔プロイセンでは教師や大学教授を含む〕
後二者の代表は、彼らがその一員である各職業団体のメンバーとして選出される。このようにして、ヘーゲルは自由市場を緩和しこれを普遍的な目的〔の達成〕のために役立てようとするだということが、追って理解されるはずである
3
3-1
手始めに『法の哲学』第260節〔「制定法」(国内法)の最初の箇所〕から長い引用を行ない、
そのあとでそれについてコメントする
3-2
この重要な段落を理解するなら、残りも理解することができるはずである。この段落をいくつかの部分に分割しておいたのでそれらを別々に註釈する。
3-3
〔以下、引用と註釈を併記する〕
(a)
引用
国家は具体的自由の現実性である。だが具体的自由とは、人格的個別制とそれの特殊的な利害関心とがあますことなく発展して、それらの権利がそれ自身として独立に〔家族および市民社会の体系において〕承認されるとともに、
註釈
国家というものは、全体として見るならば、基本的な政治的社会的諸制度の枠組みであって、公民は、家族や市民社会とともにあると同時に、国家の一員としてこれらの諸制度のおかげで自由を得ることができる〔ヘーゲルのいわゆる「政治的国家」(政府と官僚制)は「外面的国家」(諸制度の枠組みの、それ以外の部分)からは区別するのが便宜である〕。
国家とは具体的自由の現実性であると称することで、ヘーゲルが言いたいのはそのことである。国家が具体的に自由だというのは、家族ならびに市民社会に即して特殊化され、かつ法の支配を通じて保護された権利義務によって許容された限度内で、各自の特殊個人的な利害関心があらわになり尽くしてしまっている場合に、諸個人が件の利害関心を満たすことができるのは国家のおかげだからである。
(b)
引用
またそれらが一面では、おのれ自身をとおして普遍的なものの利害関心に変わり、他面では、みずから了承し同意してこの普遍的なものを承認し、しかもおのれ自身の実体的精神として承認し、そしておのれの究極目的としてのこの普遍的なもののためにはたらくということにある。
註釈
ヘーゲルの用語法が理解されないとするなら、つぎの部分はきわめて神秘的なものである。
利害関心がおのれ自身をとおして普遍的なものの利害関心に変わる、とは何を意味しているのか。
それはつぎのことをである。すなわち、社会というものは、たんに特殊個別的な利害関心が満たされることを介してではなく、理性的な秩序という意味を介して把握され、かつ —— こう言おう —— 正義という共通善の構想によって統制されているのであって、社会の全方面でなされるさまざまな主張の長所が認識されるのはこのゆえんであることを、人は自分が公民 —— 町人に対抗するものとしての —— であることができるという点において理解しているのだということ、これである。
日常の町人的世界を超えて人間の生を生じさせる当のものは何かと言えば、それは、すべての公民が、おのれの自由を可能にする近代国家という政治的社会的諸制度の体系全体に参加しこれを支えることで、普遍的な利害関心を認識することである。公民はみずから了承し同意しつつこの普遍的〔集団的〕な利害関心を自分自身のものとして承認し、最高度の優先権を与える。彼らはおのれの究極目的としてのこの普遍的な利害関心のためにすすんではたらく。これが和解の目論見の到達点である。
(c)
引用
その結果、普遍的なものは、諸個人の特殊的な利害関心や知と意志のはたらきを抜きにしては、効力をもちもしないし貫徹されもせず、諸個人もまたたんに特殊的な利害関心のために私的人格として生きるのではなく、同時に普遍的なもののなかで、普遍的なもののために意志し、この目的を意識した活動をするのである。
註釈
ヘーゲルにとっては、この普遍的な利害関心は、市民社会における個人である公民ひとりひとりの利害関心や知と意志のはたらきを抜きにしては、効力をもちもしないし貫徹されもしない。
公民は、もっぱら自分の特殊個別的な利害関心に取り込まれ、それだけに関与する私的人格としてのみ生きるわけではない。というのも公民は、普遍的な目的へと方向づけられ、〔「普遍的なもののなかで、普遍的なもののために意志し」〕、この目的を十分に意識した活動をするときには、同時に普遍的な目的 —— 正義という共通善の構想によって導かれるものとしての —— にかかわっているからである。
(d)
引用
近代国家の原理のもつ途方もない強さと深さは、主体性の原理がおのれを完成して人格的特殊性という自立的な極点になることを許すと同時に、この主体性の原理を実体として一体である状態のうちへと連れ戻し、こうして主体性の原理そのもののうちにこの一体である状態を保つということにあるのである。
註釈
ヘーゲルが信じたのは、公民の普遍的〔集団的〕な利害関心が認識され、それにたいして彼らが政治生活のなかで優先権を付与したのだとすれば、近代憲法が市民社会における十全な自由を許容したという事実は国家に途方もない力強さを与えたことになる、ということである。
このことの帰結はハルデンベルクの言う意味での革命であって、それは
先に見たように、この経済的自由と社会的解放ということでハルデンベルクが言おうとしたのは、すべての有能者への専門的役職の開放、ユダヤ教徒への宗教的寛容と市民としての解放、言論・教育の自由といったことであった。
ヘーゲルがハルデンベルクとは異なっているのは、公民が代議的民主制度に参与し、そこで能動的な役割を担う余地をより広範に認める点である。
4
4-1
ヘーゲルが支持する選挙の仕組みはわたしたちの予期せぬものである。各自がその一員でありそのメンバーが市民社会のなかで活動や仕事を分担している階層なり職業団体なり組合なりから代表者が選出されるならば、人々は政治生活においてもっと理性的かつ見識ある関心を抱くとヘーゲルは考えるのである。
これにたいして、各公民が1票を有するリベラルな仕組みにおいては、公民の利害関心は私的な経済関係へと矮小化されそこに集中してしまいがちであって、彼ら自身にとっても政治社会における共同体の連帯にとっても損失を招く結果となる。
こういうわけでヘーゲルは「一人一票」の理念を拒否するのだが、それはこの理念が各人格が原子に見立てられるような単位として政治上の審議に等しく参加する基本的な権利を有するという、民主主義的で個人主義的な理念を表明している、という根拠に基づいているのである(※2)。
ロールズ註釈(※2)
p.533
『法の哲学』第308節
直接投票にたいするヘーゲルによるおもな反論は、1817年の論文『1815年および1816年におけるヴュルテンベルク王国地方民会における討論』第2章 第2節 にあるつぎのパッセージにその片鱗が窺われる。
選挙以外には市民秩序とも国家の全体的組織とも何の結びつきも関係ももたない選挙人が登場する。公民は孤立した原子〔アトム〕として現れ、選挙人の集会は無秩序で非有機的な集合体として現れ、国民は全体としてばらばらな群集に解体してしまうのである。
これは共同社会がひとつの行為を企てるにさいして、けっして示すことがあってはならない形態である。この形態は、共同社会にふさわしからぬ形態であり、精神的秩序であるという共同社会の概念に最も矛盾した形態である。
なぜならば、年齢とか、同じく財産とかは、もっぱら個人そのものに関係する性質であって、その個人が市民秩序のうちで価値ある人物であるかどうかを決める性質ではないからである。個人がこうした価値をもつのは、ただ彼がもつ官職、身分、同じ公民のうちで承認されている実務能力、そしてこの能力にたいして与えられている権利、親方の資格、称号などによるのである。
岩波文庫 『ヘーゲル政治論文集』下巻 『1815年および1816年におけるヴュルテンベルク王国地方民会における討論。1815年—1816年の議事録 33節』
第2章 第2節
pp.32-37
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第308節 本文 p.282
議会的要素の他の部分に、市民社会の動的側面が帰属する。この側面は、外面的には市民社会の構成員が多数であるがゆえに、しかし本質的には、この側面の規定ならびに仕事の本性ゆえに、ただ議員を通じてのみ議会に参加することができる。議員が市民社会によって選出〔代理として派遣〕されるかぎり、市民社会が、それが元来そうであるものとして、この選出をおこなうことはただちにあきらかである。
したがって、市民社会は、原子論的に個々人に解体されて、ただ個々の一時的な行為のために瞬間的にその場かぎりに集合するものとしてではなく、市民社会のもともと構成されている組合組織、共同体および職業団体に分節化されているものとして、この選出をおこなうのであって、このようにしてこれらは政治的な一連関を保持するのである。
第一身分が議会にでる権限をあたえられていることと同様に、市民社会に、このように君主権によって召喚されて議員を派遣する権限があたえられていることのうちに、議会とその召集が現におこなわれる立憲的な固有の保証が存するのである。
これとは対照的に、ヘーゲルが『法の哲学』で呈示しているような秩序の行き届いた合理的な国家では、諸人格はまずもって階層なり職業団体なり組合なりの一員なのである。このような社会形態では、諸メンバーの合理的な利害関心は、ヘーゲルが公正な協議体の位階秩序〔『法の哲学』で叙述されているような〕と見なすもののなかで提起されることになるから、件の利害関心を協議のプロセスのなかで政策的に提起することにすすんで参加しようとする諸人格もいるわけだが、彼らは個人としてではなく階層なり職業団体なりのメンバーとしてそうするのである。
4-2
ヘーゲルの構想する選挙の仕組みとは、競争的性格をもつ市場の影響力と、政策〔形成〕過程にたいして営業階層の抱く野心を緩和し、かつ普遍的な利害関心、つまり全体としての国家の共通善に向けてはたらくべき公共政策を確実なものとする、という目的をもつうものであることを理解しなければならない。公共的な維持管理のための周辺諸制度の配置の一環に経済をはめ込み、競争に馴染まない諸価値を促進する方途を確立することが必要だとヘーゲルは考えたのである。さもないと近代の産業経済は政治的市民生活にとって危険なものとなり、これを駄目にしてしまうであろう。
三つの階層を前提とするヘーゲルによる国制の仕組みが、風変わりで時代遅れな印象を与えることは疑いなく、またそれが〔現代人である〕わたしたちに教えてくれるものはほとんどない。しかし、だからと言って、どんなことであれ現代の立憲制社会のほうが、よりましな仕方でわたしたちに教えてくれているなどと言えるだろうか。米国がそうでないことは間違いない。そこでは「特殊個別的な利害関心」によって立法を追求することが日常茶飯事である。
5
5-1
〔『法の哲学』〕第315節から第318節にかけてヘーゲルは世論の役割について論じている。
彼の見解は、より早い時期の政治的著作においては『法の哲学』におけるよりももっと楽天的であるが、
世論は顧慮されねばならずまた政府は階層制議会において多数の労働者を擁するべきだとする思想を、彼が廃棄したことはかつてない。
ヘーゲルがこのように書きつけたのは、現代的意味での政党が組織され政治の本質にかかわる一部分となるにいたる以前のことである。彼にとって党派とは、種々の利害関心を表明する諸階層のなかで、政治家たちの特殊個別的な集団のことであった。
5-2
世論は二つの重要な役割を担う。
一つは、政府が有権者の抱える不平不満や要望に気づくように促し、その結果として、国民が考えていることと、彼らにとって差し迫った要求や解決困難な問題点を、政府が十分理解できるようにすることである。
もう一つの役割は、政府が直面している諸問題や〔それについての〕見通しを一般公民に伝達し、その結果として、公民が、政府の下す決定なり政策なりがよりどころとするものに関する政治的思慮と知識とを、獲得するようになることである。
この双方向的関係が生じるのは階層制議会のおける討論を通じてである。
5-3
ヘーゲルは、諸階層のなかでの議論は十分に尽くされねばならないとする。つまり、どの角度から提起された理屈であれすべて討論に付されるべきだというのである。政府のどの大臣 —— これは諸階層から釣り合いよく選ばれねばならない —— も〔諸階層から〕選出されたメンバーも、合理的かつよく考えぬかれた意見に応答するうちに、自分の考えを変えることがありうると見なされている。このことによって要求されるのは、議員は自由な行為者なのであって派遣されてきた代理人ではないこと、また諸階層の会合は公開されるべきだということである。
「公開された議会は市民を陶冶するのにとりわけ効果的な大演劇であって、国民はこれに接してこそ自分たちに利害関心のほんとうの面を最も多く知るようになる。〔…〕〔他人にとって〕手本となりうる徳、才能、技能は、議会ではじめて伸ばされるのである。大臣たちはこうした議会で自分たちに向けられる攻撃に対処するためには、自分で機知や雄弁を身につけていなければならないのであるから、議会は大臣たちにとっては、たしかに煩わしいものではあるが、しかしそれでもなお公開ということは、国家の利害一般のための最大の陶冶手段なのである。公開ということが行われている国民においては、議会がなかったり公開されていなかったりする国とは、国家のことに関して、まったく打って変わった活気が現れる。」(第315節 補遺)
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第315節 本文 pp.321-
この知る機会を拡げることには、世論がはじめて真実の思想に、国家の状態や概念や国家の要件への洞察に達し、こうしてはじめて、これらに関していっそう理性的に判断する能力に達するというもっと普遍的な側面がある。それからまた、世論は、官庁と国家公務員の職務、能力、徳、技能を知りかつ評価するようになるのである。この能力が、このような公開において発展の有力な機会と高い名誉の舞台をえるのと同じく、この公開はまた、個々人および多数のひとびとのうぬぼれに対する矯正手段であり、彼らのための陶冶手段、しかも最大の陶冶手段のひとつである。
補遺のタイトル 《公開の価値》
5-4
これは、活発で情報を踏まえた世論が形成されるにあたって政治的生活の演じる陶冶的役割についての、力強い宣言である。一人歩きした世論というものは真偽半々ではあるが。
第3節 人倫——戦争と平和
pp. 515-
1
1-1
ヘーゲルはリベラリズムの伝統に数えられるべきだと私は述べておいた。しかしながら、彼の教説のなかには疑惑を呼び起こすような契機がいくつかある。そのひとつが、戦争と国家の生におけるその役割とについての教説である。
モンテスキュー以来、リベラリズムの伝統に属する著述家たちは、通商貿易と結びついている立憲民主制は諸国民のあいだに平和をもたらすだろうとしばしば理解してきた。カントの『永遠平和論』〔『永遠平和のために』〕(1795年)がそうした〔理解の〕仕方を示している。しかしヘーゲルはこの考えを拒絶する。 1-2
ヘーゲルのいわゆる「軍事階層」(第327節)の役割は戦争のさいに他国に抗して国家を防衛することである。この階層独特の徳が勇気であり、すなわち形式的な徳であるが、それというのも勇気はいっさいの特殊的な目的や快楽や生命からの自由であるという最高度の抽象性だからである。この徳は、軍人が、国家防衛のために必要とあらば自分自身を犠牲に供する準備ができているのでなくてはならないということを表現している。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第327節 本文 p.343
勇気はそれだけでは形式的な徳である。なぜなら、勇気はあらゆる特殊的な目的、占有、享楽、生命からの自由という最高の抽象化dあるが、しかし、外面的に — 現実的な仕方での否定でもあるからであり、勇気の発揮としての放棄は、それ自身では精神的な本性のものではなく、その内的な志操があれこれの根拠をなし、その現実的な結果もまた対自的ではなく、ただ対他的でありうるにすぎないからである。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第327節 補遺 pp.343-
《勇気》
軍人身分は普遍性の身分であり、そこに国家の防衛が帰属し、またこの身分は即自的にある観念性を現存在にもたらすという義務、すなわちみずからを犠牲にするという義務をもつ。
勇気はたしかにさまざまである。動物および盗賊の大胆さ、名誉のための勇気、騎士の勇気などはまだ真実の形式ではない。陶冶された諸国民の真実の勇気は、国家への奉仕において犠牲となる準備ができていることであり、その結果、個人は多数のなかのひとりでしかないのである。この場合重要なのは、個人的な大胆さではなく、普遍的なものへ秩序よく参入することである。
〈略〉
ヘーゲルは、国家は自衛のためにのみ戦争に赴くべきだというキリスト教的思想を受け入れている。つまり彼は征服や栄光を求めてなされる戦争を拒絶するのである(第326節)。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第326節 本文 p.342
国家相互間の紛争は、国家間の関係の何かある特殊的な面を対象とすることがある。このような紛争に対しては、また、国家の防衛に専念する、特殊的な部分が主要な使命をもっている。しかし、国家そのものが、すなわちその独立が危機に瀕するかぎり、義務がすべての市民を国家防衛へと召集する。国家全体が強力になり、その国内における内的な生活から国外へと駆りたてられるならば、これによって防衛戦争は侵略戦争に変わる。
戦争の遂行に関してはどうかと言えば、戦争は外国の文民ならびに諸制度にたいしてなされてはならず、また真の平和の確立をいっそう困難にするようなやり方で行われてもならない、と彼は述べている。
「したがって戦争にはつぎのような国際法上の決定が含まれている。すなわち、戦争中といえども平和の可能性を失わざること、それゆえ、たとえば使節等を尊重すべきこと、総じて戦争を、国内の諸制度、平和な家庭生活や私的生活、および私的人格にたいして行わざること、という決定がそれである。」(第338節)
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第338節 本文 p.355
諸国家が諸国家として相互に承認し合うという点で、戦争、すなわち無法、暴力、偶然の状態においても、諸国家が相互に対して即自的かつ対自的に存在するものとみなされる紐帯ちゅうたいは存続してる。そこで、交戦中においてさえ、戦争は一過的であるべきものとして規定されている。 したがって、戦争は、戦争のうちには平和の可能性が含まれており(訳注 (151))、
それゆえ、たとえば使節が敬意を払われるという、また一般に、戦争行為は国内の諸施設、平和な家庭生活や私的生活、および私的人格に対してはなされないという国際法上の規定を含んでいる(訳注 (152))。
補遺タイトル 《近年の戦争行為》
「戦争のうちには平和の可能性が含まれており」
岩波文庫『法の哲学』下巻 訳注 (151) p.440
ここでヘーゲルは、戦争が戦争が正規の外交手段のひとつであるという見解を示している。したがって、戦争は、国家と国家との相互承認をむしろ前提とするものであるという興味深い私的がなされる。 また、この見解は、カント『永遠平和のために』に示された見解からそう遠いものではない。カントはそこで、戦時においても、将来の平和時における国家相互の信頼関係を危うくするような、謀殺や条約破棄、大衆扇動があってはならないと説いている 「戦争行為は国内の諸施設、平和な家庭生活や私的生活、および私的人格に対してはなされない」
岩波文庫『法の哲学』下巻 訳注 (152) p.440
ここでの、騎士道精神を反映したかのにみえる平和の戦争観は楽天的すぎるものであろう。ことに20世紀の2つの世界大戦を通じ、非武装の一般市民の大量殺戮を含む戦争の悲劇を経験した目からみるならば。
しかし、では、ヘーゲルのここでの記述が無意味になるかというと、そうともいえない。
20世紀において、戦争の方式に関する条約が定められ、それにもとづいて戦争裁判を裁く国際法廷が開かれたという事実は、ヘーゲルのここでの記述に対応しうるものである。
しかし同時に、これは国家間が自然状態であるという彼の原則に抵触する面をもってもいる。このアポリアが、世界法廷としての世界史というような構想が、ほかならぬ、戦時における国家間正義が論じるこの箇所において登場してくる理由ともなっているはずである。
アポリア(希: ἀπορία, aporia、「行き詰まり」「問題解決能力の欠如」「困惑」「当惑」の意味)は、
哲学では、哲学的難題または困惑の状態のこと。
「世界法廷としての世界史」
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第340節 本文 pp.357-
国家相互の関係においては、諸国家が特殊的なものとして存在するから、ここには、情念、利益、目的、才能や徳、暴力、不法や悪習という内的特殊性と、同様に外的偶然性が現象のほとんどの場面にわたって跋扈ばっこしている。 〈略〉
この弁証法から、普遍的精神、すなわち世界精神が無制限なものとして出現するとともに、みずからの法を —— そしてこの法は最高の法である —— 世界法廷としての世界史 (訳注(153))において諸民族精神に対して行使するのが、この世界精神なのである。
岩波文庫『法の哲学』下巻 訳注 (153) p.440
世界法廷 Weltgericht ( Last Judgment ) としての世界史 Weltgeschichte という言葉は、ヘーゲルの歴史哲学の構想を要約するものとして有名であるが、もとは、シラーの詩、『諦観』に出て来る言葉である。
1-3
国家が維持し可能ならしめる近代的自由の体系を自衛するための戦争を正当化する点で、伝統的リベラリズムとの差異はここにはなんら存しない。
2
2-1
『法の哲学』第324節でヘーゲルが
「おのれの私見とか、生活範囲のうちにおのずと含まれているいっさいのものとかはもとよりのこと、おのれの所有や生命までをも、危機に晒し犠牲に供することによって、この実体的個体性をすなわち国家の自立と主権とを、維持することは個々人の実体的義務である。
こうした犠牲が要求されるのではたまらないというところから、国家がたんに市民社会と見なされ、そして国家の究極目的がただ諸個人の生命と所有を保証することだけであると見なされるならば、そこにはひどい計算ちがいがある」
と述べるとき、彼はリベラルな社会が戦争する権利を否認しているように見えるかもしれない。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第324節 本文 p.337
個々人の利益と権利が消滅する契機として定立されるというこの規定は、同時に肯定的なもの、すなわち個々人の偶然的でも、可変的でもない、即自的かつ対自的に存在する個体性を肯定するものである。
したがって、この関係とこれを承認することは、個々人の実体的義務である、 —— すなわち、個人の臆見やその生活の範囲におのずから含まれているすべてのものはいうにおよばず、個人の所有物や生命をも、危険に晒し、犠牲にして、この実体的個体性を、すなわち国家の独立性と主権を保持するという義務である。
補遺のタイトル 《永遠平和について》
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第324節 註解 pp.337-
この犠牲の要求にさいして、国家が単に市民社会としてのみ、みなされ、また個人の生命および所有の保証のみが国家の究極目的とみなされるならば、これは非常にゆがんだ考量の仕方である。というのも、この保障は、保障されなければならないものが犠牲にされるのでは達成されないのであり、むしろその逆だからである。
—— いま述べられた点に、戦争の人倫的契機が存している。戦争は絶対的悪とみなされてはならなず、また権力者たちないし諸国民の情念、不正等々、いかなるものにであれ、一般にあってはならないものに、したがってそれ自身偶然的にその根拠をもつおうな、単なる外的偶然性とみなされてはならない。偶然的な性質をもつものには、偶然的なものが生じるのであって、この運命がそれゆえ必然性なのである ——
〈略〉
〔国家をめぐる社会契約説については第258節 —— 註解と補遺を含む ——を見ること〕
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第258節 本文 p.182
国家は、実体的意志の現実性として、この現実性を国家の普遍性へと高められた特殊的な自己意識においてもつのであるから、即自的かつ対自的に理性的なものである。この実体的統一は絶対的で不動な自己目的であり、そこにおいて自由はその最高の法へといたるのである。同様に、この究極目的は、国家の成員であることを最高の義務とする個人に対する最高の法でもある。(訳注 (2))
補遺のタイトル 《国家の理念》
「最高の法」
岩波文庫『法の哲学』下巻 訳注 (2) p.413
ここでの「法」 Recht は、狭義の法ではなく、「正しいあり方」という意味である。国家という実体的統一の本来の目的は、そこにおいて、自由がその最高に正しいあり方に到達するということであり、また、このような目的こそ、個人にとって最高に正しいあり方であるということである。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第258節 註解 pp.182-
〈略〉
p184
この概念の探求に関して、ルソーは単に形式上〔たとえば社会衝動、神の権威のような〕ではなく、内容上も思想であり、しかも思惟自身である原理、すなわち意志をもって、国家の原理として掲げるという功績をなした。(訳注 (5))
岩波文庫『法の哲学』下巻 訳注 (5) p.414
ルソー『社会契約論』によれば、国家建設の前提となる契約を成立させる意志として、特殊的意志 la volonté particulière 、全体的意志 la volonté de tous 、普遍的意志 la volonté générale の三つが考えられるが、真にそれが可能なのは普遍的意志のみであるという。 そのさい、普遍を単なる部分の総和である全体から区別したことで、ヘーゲルはルソーを評価する〔たとえば『哲学的諸学のエンチュクロペディー』第163節〕のであるが、 しかしルソーが、この普を、個別的意志から共通の部分を引き出してくるというかたちでしか考えていないということで批判するのである。 Volonté générale
La volonté générale désigne, en philosophie politique, la volonté du peuple par chacune de ses parties visant le bien de tous (l'intérêt général), y compris pour son intérêt propre. Développé par Jean-Jacques Rousseau dans Du contrat social, ce concept fécond a connu une grande postérité.
政治哲学において、一般意志とは、人民の意志を指し、その構成要素それぞれが、自己の利益を含めた共通善(公共の利益)を目指して表明するものである。ジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』で展開したこの有益な概念は、大きな影響力を持っている。 La volonté générale se distingue de la volonté particulière, par laquelle chaque individu recherche son bien personnel.
一般意志は、各個人が自身の利益を追求する個別意志とは異なる。 Si un membre du peuple vote en visant son intérêt personnel, privé, alors il trahit la volonté générale et corrompt le peuple comme entité politique.
もし国民の一人が自身の私的な利益を念頭に置いて投票するならば、それは一般意志を裏切り、政治的実体としての国民を堕落させることになる。 La volonté générale n'est pas non plus la volonté de tous, qui ne serait que l'addition des volontés individuelles.
また、一般意志は万人の意志ではなく、単に個々の意志の総和に過ぎない。 2-2
私の解釈では、ヘーゲルはリベラルな社会が自衛戦争に乗り出す権利を拒絶しているのではない。そうではなくて、むしろヘーゲルが述べているのは、かかる社会がかかる戦争に参加する場合には、政治社会の究極目的は市民社会における個人としての個人の生命と財産を保証することだとは、理性的に〔=納得のいく仕方で〕見通すことができないということなのである。(※4)
ロールズ註釈(※4)
p.534
リベラリズムについてのこの見解は、リベラリズムを社会契約の考えに基礎づけられるものとしてヘーゲルが理解していることに由来する。
『法の哲学』第258節、第281節を参照のこと。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第258節 本文 p.182
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第281節 本文 p.271
分かれたることなき統一における両契機、
すなわち意志の根拠づけを要しない究極的な自己と、
したがって同じく根拠づけを要しない、自然にゆだねられた規定としての現存在、 —— 恣意によって動かされないものというこの理念が君主の尊厳性をなしている。
この統一のうちに国家の現実的統一が存し、この現実的統一は、これら両契機の内的および外的直接性によってのみ、特殊性の圏域に、すなわち特殊性の恣意、目的、意見などの手に落ちる可能性を、王位をめぐる党派と党派との争いを、国家権力の衰微や崩壊を免れているのである。
補遺のタイトル 《君主政体の理念》
彼が言うとおり、そうした見通しはひどい計算ちがいであろう。こう主張しているのならば彼は正しい。けれども、リベラルな社会はもっぱら財産と経済とにまつわる諸関係と、生活に関して比較的物質的に捉えられる特徴だけを含むと見なすのは、リベラルな社会という思想をきわめて限定的に捉える場合に限られるであろう。この限定的に捉えられた〔リベラルな社会という〕思想は、教会や大学や芸術・宗教・哲学といった精神的な諸活動まで含むリベラルな社会にあてはまらない。
ヘーゲルは当代の見解をしのぐ良心に関する寛容と自由 liberty とを力強く宣言し、これらを十全な仕方で肯定もしている(第270節)
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第270節 本文 pp.212-
〈略〉
補遺のタイトル 《国家と宗教》
岩波文庫『法の哲学』下巻 訳注 (23) p.417
第270節の本文が国家の有機体論についての定式化をおこなっているのに、註解において、国家と宗教の関係に関する長大な論述がなされているのは、いかにもバランスを欠き、奇妙である。
あえて解釈すれば、国家を有機体としてそれ自身の内部で完結しているものと捉えることによって、国家の宗教からの自立があきらかだとされる。そのことによって、本文と註解とのつながりがつけられるということであろう。
2-3
リベラルな社会が自衛戦争に参加する場合、この戦争は、この社会に属する公民の自由と、この社会の民主的な政治諸制度を、保護し維持するためになされるのでなければならない。この場合にのみ、リベラルな社会は自由に関するリベラリズムと一致してふるまい、かつ公正な根拠に基づいて戦争に参加していることになるのである。
実際のところ、リベラルな社会は、そこに属する公民に、経済的な富を勝ち取ったり天然資源を獲得したりするために戦えと当然のように要求することはできないのであって、ましていわんや権力作用や版図を奪い取るために戦えと要求することなどできないのである。(※4)
ロールズ註釈(※5)
p.534
もちろん、リベラルな社会はときにこのようなことをしているのだが、しかしそれはこの社会が戦争のさいに不公正にふるまっていることを示しているにすぎない。
軍隊を動員するさいの徴兵、ないしそれに類する他の訓練によって公民の自由を侵すことが許されるのは、リベラルな政治上の構想に基づいて自由それ自身〔の確保〕を目的とする場合、言いかえれば立憲的な民主的諸制度と、市民社会の数ある宗教的・非宗教的な生活の伝統と形式を、養護するために必要である場合に限られる。
このようにしてリベラルな政治諸制度は、市民社会を普遍的なものへと呼び返すはたらきを演じる。再度くり返すならば、ここでは、自衛のためだけに戦争に参加する権利とリベラリズムとは、なんら葛藤を来さないのである。
3
3-1
いまやリベラリズムについての重要な相違点へと立ちいたる。この相違は統治権に関する二つの伝統的な権力作用と、ヘーゲルがそれらを自明なものとして仮定する理由とにかかわっている。
件の権力作用のひとつは、国家がその固有の国益を、合理的に〔かならずしも、理性的にではなく〕追求すべく戦争に赴く権利である。 —— この場合の戦争とは、クラウゼヴィッツの定義したように、別の手段をもってする政治の続行である。
もうひとつの権力作用とは、国家の内的な自治権である。国家は、住民〔少数民族を含む〕や資源やみずから認める勢力圏の内部にある土地をもれなく支配するというわけである。
これらの権利は、実体的個体として理解された国家の本質的な側面をなすものだとヘーゲルは考える。なぜなら、彼の考えでは、国家は精神的実体であるかぎり他国による承認を要求するが、このことは人格が他の人格による承認を要求するのと同断だからである(第331節)。
国家というものが精神的実体として生じ、国家として持続するといったプロセスの一部をなすのが、他国による承認である。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第3章 「国家」 第331節 本文 pp.349-
国家というあり方をする国民は、実体的な理性的性格と直接的現実性を具える精神であり、したがって、地上における絶対的な力である。こうして、一国家は他の諸国家に対して主権的独立性を具えている。このような国家として、他の国家に対して存在すること、すなわち、他の国家によって承認されていることが、国家の最初の絶対的権限である。
しかし、この権限は同時に単に形式的であるにすぎず、単に国家が国家であるという理由だけで、国家のこのような承認を要求することは抽象的である。国家が事実においてそのように即自的かつ対自的に存在するものであるかどうかは、国家の内容、国内体制、状態によるのであり、そして、形式と事実上の内容の両者の同一性を含むものとしての承認も、同様に他の国家の見解と意志に依存している。
補遺のタイトル 《現存在の強さ》
3-2
自由に関するリベラルな構想は、ここでのヘーゲルの見解と二つの点で齟齬をきたすであろう。
第一に、国際法を支配すべき正しさと正義とについての諸規範を確立するために、自由に関するリベラルな構想は、国家が統治権に関する二つの伝統的な権力作用 —— すなわち、国益を追求するための交戦権と、内的な自治権 —— を有するという点を否認することになるだろう。
第一の権利を認めてしまうと、永続的な戦争に巻きこまれる危険が避けられない。
第二の権利を認めてしまうと、基本的人権が脅かされる。国家は自国の住民やそのなかの少数はを咎められることなく好き放題に虐待することができるわけではない。だから深刻な事例では、なんらかの〔国際的な〕制裁や介入すら正当化されてよいのである。
3-3
自由に関するリベラルな教説がヘーゲルの見解と齟齬をきたすであろう第二の点は、国家は精神的実体であり、それは他国によってかかる実体として承認されることが必要なのだとする彼の思想を、受け入れないことである。
しかしながら私は、実体としての国家という考えについて論じるつもりはない。自由に関するリベラリズムは国家をこのような仕方で理解しないのだと述べるだけにしておく。
国家とは、ただたんに、ある確立された政治的社会的諸制度の枠組みの内部で生活しており、かつ自由な立憲政府の代表者を通じて国家の政策決定を行っている、人民のことなのである。政治的行為者としての国家とは、国家の政治的諸制度によって組織され、それらを通じて活動する有権者である。公民からなるひとつの集合体のことである。
3-4
国際関係に関するヘーゲルの見解は、こうした諸関係はもっぱら条約にのみ基礎づけられており、しかも条約の遵守を強制するいっそう高次の権力作用は存在しない、とする見方に根ざしている(第333節-第334節)。
こうした条約は偶然の産物であるから、ある国家が、必要なら戦争によって解決されうる問題を抱えていて、条約を破棄したいと望むならば、いつでも破棄されうるものである。
ヘーゲルの構想する合理的 vernünftig 国家は自衛のためにだけ戦争に参加するが、かかる国家は攻撃されたときに自国を防衛するための固有の軍事階層を必要とする。ヘーゲルにとっては、戦争は国家間の諸関係というものが必然的に無政府的な性質をもつことの帰結である。
これとは対象的に、カントの『永遠平和論』〔『永遠平和のために』〕に典型的に示されているリベラルな見解によれば、戦争の原因は国家の内的な性質に根ざすものであって、主として諸国家相互間の無政府的な性質に帰せられるものではないとされる。
モンテスキューにまで立ち戻って言うなら(註釈 ※7)、リベラルな伝統は、民主的平和という思想を提起してきたし、また平和がいきわたるのは、自由な立憲政府によって組織され交易に従事している、民主的かつ商業的な人民のあいだにおいてだと捉えてきている。彼らのあいだが平和なのはおたがいに攻撃し合う理由が見あたらないからである。立憲国家であるかぎり、彼らは宗教の自由と良心の自由を主張する。ある宗教を主たるものとしてもっていても、他の国民を自分たちの主たる宗教へと改宗させようとはしない。社会的経済的な需要を満たすのは工業と商業である。ヘーゲルの構想する国家と同様に、彼らは自衛のためにだけ戦争に参加するのである。 ロールズ註釈(※7)
p.534
第20編「本質および種別に考察された商業と関係した法について」を指すと思われる
『法の精神』は、全6部31編から成る。
『法の精神』構成
第1部(政体と法)
第2部(軍事・自由と法)
第3部(風土と法)
第4部(商業と法)
第1章 「商業について」
第2章 「商業の精神について」
〈略〉
第21編 - 世界で遭遇する諸変革において考察された商業と関係した法について
第22編 - 貨幣使用と関係した法について
第23編 - 住民数と関係した法について
第5部(宗教と法)
第6部(法の起源)
岩波文庫 モンテスキュー『法の精神』中巻 第4部 (商業と法)
第1章 「商業について」
p.201
〈略〉
商業は破壊的な偏見を癒す。そして習俗が穏やかなところではどこでも商業が存在しているというのがほとんど一般的な原則である。また商業が存在するところではどこでも、穏やかな習俗が存在するというのもそうである。
だからわれわれの習俗が、かつでそうだあったほど残忍ではないとしても驚くにはあたらない。商業はあらゆる国民の習俗についての知識がいたるところに滲透するような働きをなしたのである。人はこれらの習俗を相互に比較したが、そこから大いに有益な成果が出てきた。
商業に関する法律は、まさにこの法律が習俗を堕落させるのと同じ理由で、習俗を改善することができる。商業は純真な習俗を腐敗させる。これがプラトンの嘆きの種であった。商業はわれわれが毎日見ているように、野蛮な習俗を磨き、これを緩和する。
岩波文庫 モンテスキュー『法の精神』中巻 第4部 (商業と法)
第2章 「商業の精神について」
p.202
商業の自然の効果は平和へと向かわせることである。一緒に商売をする二国民はたがいに相寄り相助けるようになる。一方が買うことに利益をもてば、他方は売ることに利益をもつ。そしてすべての結合は相互の必要に基づいている。
しかし、商業の精神は諸国民を結びつけるが、同じように諸個人を結びつけるわけではない。われわれのみるところでは、商業の精神の影響しか受けていない国では、あらゆる人間行動やあらゆる道徳的徳が取引の対象となる。人間性が求めるどんな小さな事柄でも、そこでは金銭と引き換えになされたり与えられたりする。
商業の精神は人間の中に厳密な正義についてのある感情を生み出す。この感情は一方では掠奪と対立し、他方ではあの道徳的徳、すなわち人に自分の利益を必ずしも執拗に主張しないようにさせ他人の利益をはかって自分自分の利益を顧慮しないようにさせるあの徳、と対立する。
これと反対に、商業を全くなくしてしまうと、アリストテレスが獲得の仕方の一つとして数えた掠奪が出てくる。その精神はある種の道徳的徳とは対立しない。たとえば、客人厚遇は、商業国では極めて稀だが、掠奪国民の間では感心するほど見出される。
〈略〉
第4節 第三の選択
(私見: 「ヘーゲル講義」なのだが、この節では「カント」に立ち返る。ヘーゲルの言う「二つの視点」に対して、カントの教説にもとづき「第三の選択」を示す)
pp. 519-
1
1-1
第156節 補遺でヘーゲルは
「倫理的なものを扱うさいには、いつも二つの視点しか可能ではない。
1. すなわち実体性を起点に考えるか、
2. それとも原子論的扱い方をして個別性を基礎とし、これから昇っていくかである。
だが、この後のほうの視点は精神を欠いている。なぜならそれはひとつの合成物に行きつくだけであるが、精神は個別的なものではなく、個別的なものと普遍的なものとの一体性だからである」
と述べている。
岩波文庫『法の哲学』下巻 第3部 第156節 補遺 pp.30-
《具体的現実性としての人倫的なもの》
人倫的なものは善のように抽象的ではなく、むしろ強い意味で現実的である。精神は現実性をもつ。そしてこの現実性の偶有性がもろもろの個人である。それゆえに、人倫的なものにおいては、つねに二つの視点のみが可能である。
つまり、実体性から出発するか、あるいは原子論的な手続きを踏むことで個別性を基礎として、そこから上昇するかのいずれかである。
後者の視点は没精神的である。というのは、この視点は単にひとつの合成物にゆき着くにすぎないのであるが、精神は個別的なものではなく、個別的なものと普遍的なものとの統一だからである。
1-2
第三の選択があることを示唆しよう。
ヘーゲルは、原子に見立てられる単一の個人から出発してそれを基礎としてそこから積み上げていくような視点に反対している。この場合には国家とその諸制度は、それらが手段として奉仕する相手である諸個人以上の何かではない。ヘーゲルが求めているのは国家を具体的な全体者として理解することである。 —— 具体的な全体者とは、その内部で特殊個別的な諸集団へと分節化されつつ存在している全体者のことである。ひとつの国家のメンバーはこのような諸集団のメンバーなのであり、わたしたちが国家を論じているときには、諸メンバーはこのように〔ある特定の集団のメンバーとして〕性格づけられたものとしてのみ考察されるのである。
私が考えている第三の選択とはルソーとカントに見出されるものである。先に私は理性的信仰に関するカントの教説との関連で彼の政治的見解についてわずかながら述べた。そこで、ここではそれを簡潔に考察しよう。 (私見: カント講座 Ⅹ 「理性の統一性」にて理性的信仰を扱っている)
2
2-1
カントの政治思想にはとりわけ以下のような主要な考えが含まれている(註釈 ※8)
1. 自由な公的理性の本質的に政治的な役割
2. 社会契約ないし根源的契約の理念
3. 国家においてともに立法に関与するメンバーとしての公民の理念
4. 基本公法の基準としての幸福原理の拒絶
5. 宗教の自由、ならびに国家の干渉から自由に固有の仕方で幸福を追求する権利〔ただし他者の権利を尊重するという条件のもとで〕
ロールズ註釈(※8)
p.534
カントの政治思想のこれらの諸契機は一連の政治的論文に見出される
『世界市民的見地における普遍史の理念』(1784年)
『啓蒙とは何か』(1784年)
『理論と実践』(1793年)
『永遠平和論』〔『永遠平和のために』〕(1795年)
『諸学部の争い』(1798年)
2-2
カントにとっての政治的希望、言いかえれば理性的信仰の内実はと言えば、彼は、それぞれが固有の代表者を選出する立憲政体であるような複数の社会からなるひとつの社会へと、人類が組織される日がくるであろうことを期待しているのである。〔そこでは〕どの政体も、まずなによりも戦争を回避すべくこぞってそこに参加するような、諸人民からなる連邦のメンバーであるだろう。
こうした希望が下敷きとしてあるので、ひとつの世界国家などというものは魂の抜けた専制であるか、さもなければ、ばらばらの諸地域が自治権を手にしようとして生じる独立戦争によって破壊されてしまうだろう、というのがカントの信念なのであって、この信念は、民主制政府はおたがいに戦争をしないという彼のさらなる信念に勝るとも劣らないものである。諸人民からなるひとつの社会というものは、例外なく立憲政体から成り立つものであるならば、平和であり文化や芸術を発展させるものであろう、とカントは考えたのである。(『永遠平和論』A:8:367)
カント全集 14 『永遠平和のために』第2章 第1補説「永遠平和の保障について」
pp.287-
国際法の理念は、互いに独立して隣り合う多くの国家の分離を前提としている。このような状態は、それ自体すでに戦争の状態であるが〔もしも諸国家の連邦的合一が敵対行為の勃発を予防しない場合には〕、それでもなお、まさにこの状態の方が、理性理念によれば、他を制圧して世界王国へと移行していく一大強国のために、諸国家が溶解してしまうよりも、好ましいのである。
なぜなら、法律は統治範囲が拡大するにつれてますます威力を失い、そして魂のない専制政治は、善の萌芽を根絶やしにしたうえ、最後に無政府状態に堕落するからである。
それにもかかわらず、このことはどの国家〔あるいはその元首〕も要求するところであり、できれば全世界を支配し、こうした仕方で持続する平和状態に至ろうと望んでいる。
だが自然は、それとは別のことを意欲するのである。 —— 自然は諸民族の混合を防ぎ、諸民族を分離させておくために、二つの手段、つまり言語の相違と宗教の相違(原注)を用いている。言語および宗教の相違は、互いに憎しみあう性癖と戦争への口実をともなうものではあるが、しかし文化が向上し、諸原理におけるより広範囲な合致へと人間が徐々に近づくことによって、それは平和についての同意へと導くのである。
この平和は、あの専制政治のように〔自由の墓地の上に〕あらゆる力の弱体化によってもたらされるのではなく、非常に活発な競争による力の均衡によってもたらされ、そして保障されるのである。
原注
さまざまな宗教の相違というのは風変わりな表現である。まさにこれは、あたかもひとがさまざまな道徳についても語っているかのようである。たしかに歴史的な諸手段に対応するさまざまな信仰方式がありうるだろう。しかし歴史的手段は、もともと宗教に属するのではなく、宗教促進のために用いられるものの歴史、つまり智識の分野、に属するのである。
また同様に、それだけの数のさまざまな宗教聖典もあるであろう。だが宗教に関しては、あらゆる人間に、またあらゆる時代に、妥当する唯一の宗教がありうるだけである。それゆえ信仰方式や聖典は、ただ宗教を運搬する道具を含むだけであって、またこの道具は偶然の産物であり、時代と場所の違いによってさまざまでありうるのである。
3
3-1
カントの見解を第三の選択として理解するための鍵は、社会契約ないし根源的契約についての彼の解釈に潜んでいる。この考えの重要な特徴は二つある。
3-2
(a)
第一の特徴は社会契約の特別な性質である。
契約というものはすべて、共同して行なう努力ないし拘束によってある目的を追求するという含意を含んでいる〔あなたが自分の目的(の実現)を促進するのをやめないことに私が合意するとき、その見返りとして、私が自分の目的(の実現)を促進するのをやめないことにあなたも同意する、というように〕。ここではこれらの目的は共有されていない。
しかしながら、社会契約とは、全員が共有する共通の目的に向けての諸個人 —— 全公民 —— の結合である(『理論と実践』 A:8:289)。
カント全集 14 『理論と実践』Ⅱ 国法における理論と実践の関係について〔ホッブズへの反論〕
pp.185-
多くの人間を一つの社会へと結びつける契約〔社会契約〕にはいろいろあるが、そのなかでも、人々のあいだに市民的体制を創設する契約は、独特の性質をもっている。
すなわち、遂行に関しては、〔共同して促進すべき何らかの任意の目的をめざしている〕他のすべての契約と多くの点で共通しているとしても、契約を樹立する原理〔市民法(の原理)〕に関しては、他のすべての契約と本質的にちがっているのである。
多くの人々が〔彼らが全員もっている〕何らかの〔共通の〕目的のために結合するということなら、どんな社会契約においても見られる。しかし、結合すること自体が〔ひとりひとりすべての人がもつべき〕目的であるような結合、それゆえたがいに影響を与えあうことが避けられない存在である人間のあらゆる外的関係全般において無条件的で最初の義務であるような結合、これは、市民的状態にあるかぎりでの社会、いいかえれば公共体を形成するかぎりでの社会においてしか見出されない。
では、このような外的関係に於いてそれ自体が義務であるような目的、それどころか他のあらゆる外的義務に対して形式のうえで枠をはめる最高条件〔不可欠条件〕でさえあるような目的とは何か。それは、公的な強制法のもとでの人間の権利である。この公的な強制法によって、各人に対して何がその人のものであるかを規定することができ、他人からのどんな侵害に対しても安全を保障することができるのである。
しかし、そもそも外的な権利規定としての法の概念は、人間の外的相互関係における自由の概念に全面的に基づいており、すべての人間が自然ながらにもっている目的〔すなわち幸福への意図〕やそれに到達するための手段の指図とは何の関係もない。しがたってまた、そうした目的が公的強制法のなかにその規定根拠として混入するなどということは、断じてあってはならない。権利規定としての法とは、各人の自由がすべての人の自由と調和するようにという条件へと各人の自由を制限するもの、とはいえただしその調和が普遍的法則に従って可能となるような仕方で制限するものである。そして公的権利規定としての公法とは、このようなすべての人にわたる調和を可能にする外的な法の総体である。
ところで、自由が他人の選択意志によって制限されることはすべて強制と呼ばれるのであるから、市民的体制とは〔他人との結合の全体においては自由であるといえるけれども〕それでもやはり強制法のもとにあるような自由な人間の関係である。彼らが強制法のもとにあるのはなぜかというと、それは、彼らの理性自らがそのようにあることを欲するからである。しかも、その理性は、いかなる経験的な目的〔それらはすべて幸福という一般的な名称でひとくくりにされる〕であれ配慮することなく、ア・プリオリに立法する純粋理性である。経験的な目的に関しては、そして各人が何を経験的な目的として立てようとするかについては、人々の考えはそれぞれまったく別々なのだから、人々の意志を共通の原理のもとへともたらすことはできないし、それゆえすべての人の自由と調和するような外的な法のもとへもたらすことはできない。
〈略〉
いまやこのまったく同一の目的とは、共有される目的であるだけでなく、共有されるべき・・目的でもある。これは、カントの考えでは、わたしたちが下すべく義務づけられている最初の決定とは、わたしたちにたいして強制されるであろう公法体系にこぞって服するために、自然状態を廃棄し、わたしたちの行為が影響を及ぼしそうな人すべてと結合することだからである(『道徳形而上学』 Mds Ⅰ§44)。こういうわけで、国家とは、公法 public right の諸原理のもとので人民の結合である(『道徳形而上学』 Mds Ⅰ§43)。 岩波文庫 『人倫の形而上学』法論・第2部 公法
第1章 国家法
第44節 pp.247-
〈略〉
したがってなにか事実が、公的に法則による強制を必然的なものとするわけではない。むしろ、人間がたとえどれほど善良で正義を愛するものだと考えられたにしても、それでも以下の件がア・プリオリに、そうした〔法的ではない〕状態にかんする理性理念のうちに含まれているのである。
すなわち、一箇の公的に法則的な状態が設立されていないかぎりは、個々の人間、人民や国家はけっして、たがいに対する暴力的行為のめで安寧ではありえず、しかもそのような事態の由来するところは、各人の有するみずからに固有の権利に、つまりおのおのが「じぶんにとって正しくかつ善いと思われることをなし、この点については他者の意見に左右されることがない」とする権利にある、ということである。
したがって決定すべき第一のことは、各人がいっさいの法概念を放棄しようと思うのではないとすれば、以下のような原則になるだろう。
すなわち、各人が自身の思うがままふるまう自然状態から脱却して、すべての他者たちと〔彼らとの相互作用のうちに入りこむことが避けえないかぎり〕ともに結合して、一箇の公的に法則的な外的強制のもとに従属しなければならない、というものである。
しがたってここで参入しなければならない状態とは、各人に対して「みずからのもの」として承認されるべきところが法則によって規定され、十分な権力〔その権力は各人のものではなく、一箇の外的な権力にほかならない〕によって配分されるような状態のことである。
以上を要するに、すなわち各人は、なによりもまず一箇の市民的状態へ参入するべきなのである。
〈略〉
岩波文庫 『道徳形而上学』法論・第2部 公法
第1章 国家法
第44節 pp.247-
法則が一般に公布されていることを必要とし、そうすることでなんらかの法的状態を設立することになる場合、こうした諸法則の総体は公法である。
—— 公法とは、したがって諸法則の一箇の体系であり、それはひとつの人民、すなわち以下のような〔条件を満たす〕一群の人間たち、あるいはおなじく一群の諸人民のために存在する。
つまり、彼らはたがいに対して相互的な影響を与えあう関係のうちにあって、法的状態を、彼らを結合する一箇の意志のもとに必要とし、すなわちなんらかの体制〔憲法〕を必要として、そのことで合法的であることがらに与することができるようになる、ということである。
—— 人民に所属する諸個人が、たがいにこのような関係に置かれている状態は市民的状態と呼ばれ、そうした諸個人の全体が、その固有の成員との関係において捉えられる場合に国家と呼ばれる。
この国家は、その形式にかんして、法的状態において存在しようとする万人の共通の関心によって結合したものとしては、公共体〔広義の共有物(共和国)〕と名づけられる一方、他の諸人民との関係においては端的に主権と呼ばれている〔ここから主権者という語が由来するのである〕。それはさらにまた、その〔いわゆる〕父祖伝来の結合のゆえに民族とも名づけられ、かくて公法の一般的概念のもとに、ただたんに国家法ばかりではなく、国際法〔諸民族の法〕をも含めて考えるべき機縁を与えている。
この件からしてさらにまた、地表は際限のない平面ではなく、それ自身としては閉じられた平面であるがゆえに、〔国家法と国際法の〕双方を合わせて諸民族からなる国家の法〔万民法〕ないし世界公民法という理念へと不可避的に導かれてゆくことになるだろう。
3-3
(b)
社会契約に関する第二の明白な特徴は、それが理性の理念だということである(『理論と実践』 A:8:297)。
このことでもってカントが言おうとしていることのひとつは、このような契約を過去のうちに探しだすことはできないし、そうしたものが以前に存在していたことがあるのか、またそこにはどんな約定があったのか、などと詮索することもできないということである。
これらの探索はすべて的はずれであるが、それは、この契約の観念が理性の理念であり、またそうしたものであるかぎり非歴史的なものであるからである。社会契約とは制定法と基本法の最高の規準なのだと理解されるとき、それは正当な仕方で理解されることになる。社会契約は、最高の規準として、どの立法者にも、人民全体の結合意志によって制定されえたであろう仕方で法を制定し、かつそのようにしてめいめいの主体の同意を一般意志という形で体現すべき義務を負わせる。カントは言う、 「このことこそ、およそ公法の合理性の有無を判別する試金石である。〔…〕もし公法にして、人民全体の同意を得ることがついに不可能であるようなものであれば、〔…〕その法は正しくないのである」(『理論と実践』 A:8:297)。
カント全集 14 『理論と実践』Ⅱ 国法における理論と実践の関係について〔ホッブズへの反論〕
pp.197-
さて、こうしてここに根源的契約が存在する。人々のあいだの市民的体制、したがってすみずみまで法がいきわたった体制がそのまま基礎とすることができるのは、この根源的契約以外にはありえないし、また、公共体は、この根源的契約に基づいてのみ創設されうる。 —— この契約〔これは原初契約、あるいは社会契約と呼ばれる〕は、一つの国民においてひとりひとり別々で私的な意志を、共通の公的な意志へと結びつけるものである〔そしてそれは、ただ立法を正義にかなったものとするためにほかならない〕。
しかし、こうした契約が事実として存在することを前提にする必要はまったくない〔それどころか、事実として存在することは不可能である〕。
別の言い方をしよう。はたして、われわれの祖先となるある一つの国民がかつて実際にこのような作業をおこない、そしてそれを示す確実な通知あるいは文書をわれわれに対して口頭あるいは書面で残しておいたにちがいなく、その結果としてわれわれは自分が既存の市民的体制に結びつけられているとみなし、そうしてその国民の権利および義務の諸関係の中に加わったのだろうか。そのようなことがまず最初にあらかじめ歴史に基づいて証明されるのでなければならないかのように考える必要など、まったくない。
ひとりひとりすべての立法者に対して、彼が法を制定するにあたって、その法が国民全体の一つになった意志に基づいて生じえたかのような仕方で制定するように義務づけること、そして市民であろうとするかぎりでのひとりひとりすべての臣民を、あたかも彼がこのような意志に同意したかのごとくみなすこと、このことは単なる理性の理念である。
とはいえ、この理念は疑う余地のない〔実践的な〕リアリティをもっている。というのも、それはあらゆる公法の正当性の試金石なのだから。
いいかえれば、国民全体がそれに同意することが不可能であるような公法は不当である。これに対して、国民がそれに同意することが可能でありさえするのならば、その法を正当なものとみなすことは義務である。たとえ国民が現時点において、もしも賛否を問われたらおそらく同意を拒むであろうような心の状態や気分にあるとしても、それは関係ない。
〈略〉
4
4-1
この原理の適用例として、カントは、法はある一定の主体たちの属する階層を特権的で世襲のものとして確立することはできないし(『理論と実践』 A:8:297)、
カント全集 14 『理論と実践』Ⅱ 国法における理論と実践の関係について〔ホッブズへの反論〕
p.198
いいかえれば、国民全体がそれに同意することが不可能であるような公法〔たとえば臣民の中のある階級が世襲的に支配者の身分の特典をもつというような公法〕は不当である。
またある宗教を相応の制裁力を背景として国教だと宣言することもできない、と述べている(Mds A:6:327-328)。
「人民のだれであろうと、自分たちの信仰に関する理解〔啓蒙〕はけっしてこれ以上向上するものではないというふうに、したがって教会制度に関してもみずから改革はしないというふうに決定しうるものではない。というのは、人民各自みずからの人格の内なる人間性に反し、したがって人民のもつ最高の法ないし権利に反するだろうからである。」
(私見: ロールズがなぜここで、この部分を引用したのか、ちょっとよくわからない。僕が宗教の意義について理解できていないせいかも)
何であれこの種の法が妥当しないのは、後代の人による宗教的理解のさらなる向上がそのおかげで妨げられるために、わたしたちの子孫の権利が侵害されてしまううだろうからである。
岩波文庫 『人倫の形而上学』法論・第2部 公法 第1章 国家法 「市民的統合の本性から生じる法的な諸効果にかんする一般的注解 C
(私見: ここでカントはまず宗教と教会制度を区別している)
pp.283-
教会制度は内面的心根〔にかかわるもの〕としての宗教から、後者〔宗教〕がまったく市民的権力〔国家権力?〕の作用圏外にあるかぎりで慎重に区別されなければならず〔教会という施設は人民が公共の場で神を礼拝するために設けられたものであり、この礼拝は実際また人民にその起源を有するものであって、それが人民の思いなしであれ確信であれ、選ぶところはないのである〕、この制度は国家にとって真に必要とされるものである。
〈略〉
後で引用するかも
4-2
社会契約にまつわる二つの顕著な特徴が意味するのは、この契約が最高原理を政治的な事柄に即して定式化することである。その原理を尊敬することによって、理性的で合理的な人格は、全公民の諸権利が法の諸原理によって保証されているひとつの社会結合へと、万人とともに参入しなければならない、という最初の義務が満たされる。だれもがこの義務を負っている。だから、社会契約によって社会へと参入することで、わたしたちのひとりひとりがまさに同一の目的を、すなわちわたしたち全員が共有しておりかつ共有すべきである目的を、達成するのである。契約に関する第一の特別な特徴だというのはこの所以である。
(私見: 契約に関する第一の特徴「社会契約の特別な性質」)
契約に関する第二の特徴 —— 基本法の最高の規準だということ —— は、理性的で合理的な人格ならば基本法の施行のさいに同意できたであろう事柄から帰結する。カントの政治的教説のなかで、このことは、それが第三の選択であることを十分に示してくれるものである。 (私見: 契約に関する第一の特徴「理性の理念」)
それは、すべての社会的なつながりから独立である原子に見立てられる単一の個人から出発して、それを基礎としてそこから積み上げていく思考とは異なる。
(私見: ホッブズの選択)
加えてそれは、精神的実体としての国家とか、その実体性のたんなる偶有性としての諸個人とかいった観念を、用いることもしない。
(私見: ヘーゲルの選択)
国家とは、理性的で公正であればだれでも見て取ることができる諸原理に合致しながら、諸個人が自分の目的をそのなかで追求するような、そういった競技場なのである。
第5節 リベラリズムの批判者としてのヘーゲルの遺産
pp. 523-
1
1-1
リベラリズムへの批判は、ヘーゲルが今日に伝えた重要な遺産のひとつだと考える論者もいる。実際、ヘーゲルの批判的洞察は意義あるものである。リベラリズム、とりわけ自由に関するリベラリズムは、それらの洞察を認識し説明することができていないのだが、このことはそれほど明瞭ではない。
1-2
(私見:リベラリズムに関する第一の批判)
リベラルな社会に関して、こうした社会は普遍的で集団的な目標をなんらもっておらず、この社会の個々のメンバー —— つまりヘーゲルが市民社会だとみなすもの —— の特殊的個別的で私的な諸目的に奉仕するためにのみ存在しているのだと言われることがままある。 これの類例がホッブズの政治哲学にも見出される。彼の説く自然状態では、すべての人格は彼ら自身の幸福ないし安全に関して、私的ないし個人的な目的をもつ。これらの諸目的はもちろんのこと共有されてはいない。これらの諸目的は同じ種類のものではあるかもしれないが、まったく同一の目的ではない。 主権国家を確立するホッブズの社会契約は共有される目的を含まず、ましてや万人が共有すべき目的などといったものは、万人が合理的である〔理性的ということの対立項として〕のでもないかぎり、含むものではない。さらに付け加えれば、国家の諸制度は、それが個々人ひとりひとり千差万別な幸福ないし安全に奉仕する手段だという意味でのみ、共通の目的である。 件の諸制度は、諸公民がそれ自身として正しい right or just と見なし、またそれに基づきつつ彼らが彼ら自身の理解する正義ということの意味によって行為すべく駆り立てられるような、そういった公共的で政治的な生の形式を特定するものではない。『リヴァイアサン』の描く社会は一種の私的社会である。 ホッブズのアプローチについてヘーゲルは「それは〔個人の〕並列へと導くだけであって精神を欠いている」と述べている。まったく同一の目的が公共的に共有されていないから、実在的な統一は存在しない。これが原子論的な個人主義のひとつの意味である。 1-3
いましがた見てきたように、こうした批判はカントにはあてはまらない。 カントの想定では、全公民は社会契約を理性の理念として理解するのであり、それは義務として共有する目的を、つまりは公民は社会的結合を政治的に創設するという目的を、ともなうのである。彼の教説によれば、公民は、みずからの基本的合法的権利ならびに解放という意味での自由を、自分自身にたいして確保すると同様に、他の公民にたいしても確保するという、まったく同一の目的をもつ。
さらに言えば、この共有された目的は、法ないし権利や正義に関する理性的な諸原理によって特徴づけられる。この目的が、理性的で公正な政治的生の形式である。公民の諸権利や、解放という意味での自由が尊重されるのは、もちろんのこと彼らの善に向けてである。しかし、それらを尊重することは、もろもろの公民は共和政体の共同の目的としておたがいに依存し合うことなのである。同様のことがなんであれ自由に関するリベラリズムと言われるものにもあてはまるのである。 —— カントのそれやジョン・スチュアート・ミルのそれや〔私の〕『正義論』のそれにも。自由に関するリベラリズムにおいては、国家というものは公的にはなんら共通の目的を共有せず、もっぱら国家の公民の私的な目的や欲求という点からのみ正当化されるのだ、と述べるのはただしくない。 1-4
自由に関するリベラリズムの伝統は少なくとも宗教改革とともに始まり、一定の基本的な、解放という意味での自由にたいして、特別な優先権を与える。
基本的な例をいくつか挙げるならば、良心の自由 Liberty や思想の自由、人格の自由、職業選択の自由 —— 奴隷制や農奴制からの自由 —— がそれである。
政治的リベラリズムもまた自由に関するリベラリズムである。付け加えて言えば、政治的リベラリズムはすべての公民にたいしてどんな目的にも適合した手段〔第一の善〕を請け合うから、公民はだれでも自分の自由を行使するにさいして〔この手段を〕各自の理解に応じて用いることができるのである。しかし彼らの幸福が保証されるわけではない。それは〔手段使用の巧拙にではなく〕公民たち自信にかかわる事柄だからである。
〔古典的な〕功利主義者たちのリベラリズム —— ベンサム、ジェイムズ、ミル、シジウィックといった —— は、自由に関するリベラリズムとは性質が異なる。彼らの説くリベラリズムの第一原理は諸個人全体にわたって合算される最大幸福原理である。最大幸福原理がリベラルな自由に合致するとすれば、この原理は幸福に関するひとつのリベラリズムである。しかし件の原理はリベラルな自由に合致しないのだとするなら、最大幸福原理はじつはリベラリズムでも何でもない。その基本的な理想は幸福を最大ならしめるというものであるから、幸福を最大化することで基本的自由が保障されることになるかどうかは偶然的な事柄なのである。 2
2-1
リベラリズムに関する第二の批判は、人民はすでに確立された政治的社会諸制度の枠組みの内部に社会的に深く根を下ろしているのだという、ヘーゲルがたしかに見て取った事柄を、かのリベラリズムは見失っている、というものである。このヘーゲルの洞察にわたしたちは間違いなく学ぶものがあるのであり、これは彼の偉大な貢献のひとつに数えられる。
しかし私は、この点を捉えて、自由に関するリベラリズムが誤っているのだとは考えない。この〔ヘーゲルが提起した批判的な〕観点から見るならば、『正義論』は、社会の基本構造を、正義を成り立たせる第一の主体 subject と見なす点で、ヘーゲルを引き継ぐものである。 人民は社会に根ざす者として出発するし、彼らが選択する正義の第一原理は、〔社会の〕基本構造にあてはまるものであるべきである。人格の概念と社会の概念は統一体をなしている。つまり、どちらも他の一方を必要としており、自分だけで存立することはけっしてないのである。
2-2
もし立憲民主制の公民がおたがいに自由で平等なものとして認識し合うべきだとするならば、〔社会の〕基本的諸制度は彼らにたいして、政治的正義に関するこの〔自由・平等という〕理想を公共的に開陳し促進するだけでなく、彼ら自身の何たるか〔=彼らが自由で平等であるということ〕を教えるものでなくてはならない。
教育がこうした仕事を担うということは、〔その社会が抱く〕政治的構想が決めるべきことの一部である。このような政治的構想の任務に関して言えば、政治的構想は公共的な政治文化の一環である。その第一の諸原理は、〔社会の〕基本構造をなす諸制度において具体化され、そうした諸制度の解釈を通じて、注意を惹くよう促されるのである。
公共的な文化を知りこれに参加することは公民が自分たち自身の何たるかを学ぶ方法のひとつである。
この公民たち自身の何たるかとは、もし彼らが公共性から孤立して自分たちにだけ通用するあれこれを思考を凝らすだけであったならば、まずほとんど形成することもなく、ましてや受け入れたり実現しようと欲したりなどしない類のものである。
2-3
さらに踏み込んで考察してみたいのは、社会的生につきまとうもろもろの偶然的要素が、人々の抱く究極意図および究極目的の内実に対しそれを追求する際に、人々がもっている活力や自信に影響を及ぼすのと同様にして、やはり影響を与えるわけだがそれはいったいどんなふうにか、ということである。
わたしたちは社会における自分の分相応に人生において見込みを立て、現実的に見て期待しうる手段と機会という光の当たる範囲内で意図なり目的なりを設定する。
自分の未来に希望をもち楽観的でいるかどうか、または諦めてしまって無関心を貫くかどうか、このことはわたしたちの社会的地位〔の違い〕にともなう不平等に由来するものであり、また同時に、社会が表には出てこない正義の諸制度を統制すべく公言するのみならず、かかる統制のために多かれ少なかれ効果的に利用してもいる公共的な正義の諸原理に由来するものである。
社会的経済的体制の基本構造とは、たんに、現にある欲求なり野心なりを満たしてくれる仕組みであるだけでなく、将来にわたってさらなる欲求なり野心なりを喚起するような仕組みでもあるのは、このゆえである。かくして欲求なり野心なりが喚起される —— このことは、件の仕組みによって〔未来についての〕もろもろの予期を通じて生じ、未来の到来を熱望するものだが —— おかげで、現在だけでなく、人生全体にわたってもまた鼓舞されることになる。
2-4
さらに付け加えれば、さまざまな種類の生来の資質〔たとえば生来の知能や天賦の才能〕というものは、恒常的な能力をともなった固定的な天賦の資産であるのではない。件の数々の資質はもっぱら潜在的なものであって、社会的条件を離れて実を結ぶにいたることはできない。
またそれらが自覚された場合でも、多くの可能性の形態のうち一つまたはごくわずかなものだけが選択されることができるのである。陶冶され訓練された諸能力はいつもひとつの選択〔の結果〕、しかも限られた選択〔の結果〕であり、満たされていたかもしれない広範に及ぶ可能性の数々のなかから選択されたものなのである。
かかる資質の実現に影響を与えるものとして、社会がこれを促進し支援する態勢や、かかる資質を早期に訓練し発揮することを授ける諸制度が挙げられる。わたしたちが何者であるか、またその目的や野心に関する了解内容にかぎらず、実現された能力や才能にもまた、個人史や機会、社会的地位や運不運の影響が反映される。この種の根拠から、わたしたちが社会に根ざすものであることが示されるわけだが、これは理性的なリベラリズムによって十分に認識されていることなのである。
3
3-1
リベラリズムに関する第三の批判は、諸制度や社会的実践がそれ自体としてもつ内的な価値はリベラリズムでは説明できない、というものである。
ヘーゲルがそう理解するように、こうしたもろもろの社会的形態が善であるゆえんは、諸個人の目的なり欲求なりを満たしてくれるという点を超えているはずである。たとえそうした目的が社会的なものである場合でさえ、そうであるはずである。
社会的目的とはたとえば、公民・公務員・演奏者・指揮者・その他音楽の伝統を担うのに一役買っている人すべての目的である場合もある。同様に、かぎりなく多くの他の事例が挙げられよう。
しかし、こうした目的を達成することは、一方ではその目的をもっている個人を満足させることはもちろんであるが、そうしたものとして個人の私的な善であるというわけではない。というのも、もしそうしたものであるとすれば、思うにそれは、相応の社会的関係を抜きにしても持ち得た善だということになってしまうからである。
3-2
そこで、集団的善は諸個人の善へと還元できない価値をもつとヘーゲルは理解するのだ、と言われる場合、どんなことが意味されているのだろうか。
国家を合理的なものとしこれを目的それ自体とするのは、諸個人の主体的な自由ならびに私的な善を現実にもたらすことと、国家の諸制度とが同一であることだ、とヘーゲルは把握しているのだと言われているのである。
3-3
ここで決定的に重要なのは、諸個人の善とか、諸個人の私的な善とか、諸個人の本来の私的な善とかいうことで、何が意味されているのかということである。これらは同一の事柄を意味しているのだろうか?それらはまったく同一というわけではないと答えよう。そしてそれらを次のように区分することとしよう
3-4
(1)
まず第一に、諸個人の善は、
諸個人の善は、少なくとも部分的には、個人が抱くあらゆる種類の最終目標の達成ということからなっている。
その達成は、そうした抱負の満足ということとともに、この場合にはとりわけ、上記のように定義された社会的公共的目標〔の達成〕ということを含んでいる。
3-5
(2)
つぎに、諸個人の私的な善とは、
公民としてもつのではない様々な種類の最終目標を達成することであって、
ここでは、公民の立場とは無関係に抱く目的、つまり家族のメンバーとして抱いたり、夫や妻として抱いたり、息子や娘として抱いたりする目的が数えられる。
わたしたちは家族やその他ある種の諸制度を非公共的なものと考えるが、このことは、しかし、それらが道徳的法的強制のもとにないことを意味するものではない。
3-6
(3)
最後に、諸個人の本来の私的な善とは、
純粋に個人的ないしその人だけに関わるものとみなされる個人の善、
言ってみれば、個人の全面的包括的な幸福 —— とはいえかならずしも幸福主義的 hedonistic に理解されているわけではない —— の観点からする善である。
3-7
リベラルな伝統はこれらすべての種類〔とりわけ第一の種類〕の諸個人の善を許容しうるし実際にもそうしているということ、このことを認めれば、リベラルな伝統とヘーゲルの見解とのあいだにさほど葛藤が生じるわけではないことになる。
リベラルな諸制度という基本構造は、それが自由な諸制度の枠組みであるかぎり、こういったあらゆる種類の最終目標の達成に寄与するのである。そしてこのことが、国家を合理的かつ目的それ自身たらしめるものにほかならないのである。
3-8
もろもろの集団的な善もまた価値をもつのは、それが諸個人にとって価値をもつがゆえにだという同語反復を、ヘーゲルは否定しない。だから、わたしたちが集団的な善を、一般に諸個人に利益をもたらす制度的な状況 —— つまり自由な諸制度の枠組みそのもの —— のようなものとして構成したとしても、ここでもまたリベラルな伝統となんらの葛藤も生じない。
というのも、リベラリズムは、諸個人は公民なり政治家なりとして自分たちの最終目標の見地から自由な諸制度の枠組それ自身を確立すべく努力するだろう、ということを認識しているからである。そうすることで、公共的正義、言いかえれば、民主主義の理想への献身に向けられた彼らの欲求は満たされるのである。たしかにヘーゲルは、リベラルな伝統はこうした抱負をまったく認知しないと述べてはいない。この抱負の現実化の成功が、彼らが自分たちの善〔社会的制度的に定義された〕を実現するその程度を決めるのである。
4
4-1
諸個人にとって最大の価値をもつもの、言いかえれば、諸個人の自由を最も実現するものとは、普遍的ないし集団的な目的を追求することであり、彼らひとりひとりの私的な諸目的をそれとして追求することではない、とヘーゲルは主張する。
しかしリベラルな伝統はこうした主張を全面的に否定するわけではない。リベラルな伝統が文句なしに否定するのは、人類最大の善は一般に、ギリシア人のポリスの公共的生においてそうであったように、政治というものにおいて実現されるということである。
そうではなくてむしろ、リベラリズムが力点を置くのは
他の偉大な集団的な諸価値、たとえば科学とか芸術とか文化とかいったものの諸価値、
あるいは私的個人的生活に関する価値、つまり親愛の情とか友愛とか情愛といった諸価値である。
5
5-1
私の考えでは、わたしたちはなお依然としてヘーゲルの見解の根をきわめねばならないが、それは、リベラリズムとのあいだに取り沙汰されている葛藤がこれまでのところでは存在しないようにみえるからである。
わたしたちが詳細に調べてきた批判の数々は、リベラリズムに関する誤った理解、というよりは実際のところ、そのパロディに基づいているのである。そこで別の針路を採ってみることにしよう。
5-2
ヘーゲルの見解の根は、歴史とか精神 Geist とか、哲学的反省における理性の役割とかについての彼の構想に見出される。
ヘーゲルはしばしば、歴史上の大人物の偉大さを、人間の社会的生の制度的構造を前進させ発展させることにたいしてなした貢献という点から特徴づけている。歴史的人物の行為は時間を超えて図らずも大きな社会変革を実現するのであり、このことを哲学は、出来事のあとになって顧みて、理性の狡知という言葉でもって理解する。
偉大な人物は自分自身の狭い目的を追求するが、そのとき自分が精神 Geist の実現に奉仕しているのだということはわかっていない。
ヘーゲルは、無感覚かつ無関心でいるわたしたちに有無を言わさず襲いかかるといった仕方で、諸個人が負わされる運命や苦悩についてしばしば語っている。彼らは歴史の行程のなかでたいていは材料として使い尽くされる。彼らは、諸制度なり文化なりの、いっとき限りで、しかも誰とでも取り替えのきく部材として、やって来ては立ち去っていくのである。
それでも社会的な枠組みは、おのれの堅牢を保ちつづけるのであり、精神 Geist が実体から完全に自己自身を意識するにいたった主体へと移行するという目標において創り出した成果を、目には見えないおのれの潜勢的なあり方を完全に分節化し尽くすにいたりつつ、明示するのである。
この最後のものは、いっそう高次の、宗教的ですらある重要性をもつのであって、たんに人間的な重要性をもつばかりではない。このことの意味はどうすればあきらかにできるであろうか。
5-3
つぎに述べるようなやり方で問題を位置づけてみよう。三つの視点がある。すなわち、人類の視点、神の視点、精神 Geist の視点の三つである。
精神の視点という考えは、人間的であって同時に神的でもある視点という考えのことであるが、それはまさに精神が神と人類という伝統的概念を媒介し和解させるものとして導入されることによる。
精神は残酷なものではなく、またたしかに意地の悪いものでもない。
実体から主体にいたる精神の発達のなかで人類は苦しみ死んでいくのだが、それは人類最後の日に蘇りを与あずからんがためではない。しかし社会的諸制度というものが諸個人の善を実現するための枠組みにほかならないこと、これは本質的なことである。 そうであることにおいてのみ、精神は、理性的で合理的な社会的諸制度のなかでおのれの十分な表現を達成する。
そうであることにおいてのみ、諸個人は、人間的意識 —— その精神それ自身が、おのれを意識する自己意識を達成する —— において、文化の —— 宗教、哲学、科学、芸術の —— 担い手たりうるのである。
ヘーゲルにとって、精神がその最高の自覚に達するのは宗教、芸術、哲学においてなのだが、それは、人間が宗教、芸術、哲学に参与しかつこれらを実現できるかぎりにおいてのことなのである。
いっそう高次の文化における人類の集団的自己意識とは、そこにおいて精神がおのれのこのうえなく完全な実現と完璧な顕現に達するような意識のことである。このことを知っているにせよいないにせよ、人間は、精神の目標 —— 人間自身のものでもある、ある重要な意味においてもつ目標 —— に奉仕すべく生きているのだ。
精神の視点からすれば、この目標は、人間の視点から了解される価値なり善なりではなく、人間の生と文化にかかわるよりいっそう高い価値なのである。こういった事柄は戦争や歴史的発展についてのヘーゲルの所見に示されている。
5-4
それにしても精神 Geist の視点とは何か?それはキリスト教における、世界を超えそれとは別のものとしてある神の視点のことではない。
というのは、ヘーゲルはルター主義者だと自認しているけれども、その哲学的神学の一貫する論点は、神とは根源的な他者のことだという考え方を拒絶することだからである。むしろ、精神の自己意識とは、時間を超えた人間の集団的な自己意識、言いかえれば、文化 —— とりわけ芸術、宗教、哲学 —— のなかの人間的生の千差万別な諸形態において表明された自己意識のことなのである。
さて、人間の自己意識の最高形態が哲学において生じるのは、この自己意識が絶対知の実現に達成するときである。だから、精神 Geist の視点とは、その発展の最高かつ最終の段階において哲学が到達した絶対知の視点のことであるはずである。歴史と文化の全行程を振り返るようなその視点からすれば、歴史と文化の発展がそれ自身として最高の善なのだと理解することが、哲学にとって可能であるのでなければならない。
この善とは、そのために諸個人が苦しみ死んでいき、また諸国民が興亡した —— そのことの理由は、芸術や宗教のなかに予示された哲学の真理それ自身を当事者たちが把握したそのかぎりのものを除けば、彼らにはまったく知らされない —— 当のものの実現ということである。
諸個人ならびに諸民族の善はなるほどたしかに善ではあるが、最高善ではない。つまりそれあるがために世界は時間空間を超えて広がっているのだとわたしたちが見なすような、またそのおかげで世界は自分自身にたいして徹頭徹尾叡智的なものとなるような、最高善ではないのである。
5-5
最終かつ最高段階において振り返ったときに、歴史の全行程を善だと理解するような精神 Geist の視点において表明されているのは、どんな哲学的見解であろうか。
私が思うに、これにたいしてありうる唯一の回答は、精神は歴史の全行程をいわば与えられたひとつの事実として善なのだと理解する、というものである。
しかし、ほんとうはこれはヘーゲルによる回答ではありえないであろう、と私は考える。というのも、彼は、自分の説く観念論の基本テーゼとして、世界というものは徹頭徹尾完全に叡智的〔=知性によって了解可能〕であるという見解にコミットしているからである。だから、精神が世界を善だとみなすとき、精神はある理由に基づいてそうするのである。ではその理由とはどんなものだろうか?
5-6
思うにその理由とはヘーゲルはアリストテレスが最高善に関して立てた厳格な基準に積極的に賛同していることである。 最高善とは、完璧であって、それ自身のゆえにのみ欲求される自己充足であり、いかなる付加的な善もそれをより善くすることはありえないような、そういった善のことである。
この完璧ないし完全な善はいかなる個人、集団、国民によっても達成されることはできず、世界史の全行程を覆う精神 —— 人間的であって同時に神的である —— によって達成されるのである。
5-7
この善は事物や諸民族の潜勢態に根ざしている。
善は、種々の行為においてこの潜勢態が十全に表現されることで達成される。
だから、精神という潜勢態が世界のなかで十全な表現に達するとき、精神は、哲学という形で振り返ることを通じて、この潜勢態を自己意識へともたらし、哲学の視点から歴史の行程をそれ自身として善なるものと見なすのである。
(私見: 潜勢態とは?)
潜勢態〔可能態〕、現実態、完成態
デュミナス、エネルゲイア、エンテレケイア
デュナミス(希: dynamis, dunamis)とは、能力・可能態・潜勢態の意味を持つ、アリストテレスの哲学の中心をなす概念である。 『自然学』などで解説された。事物の生成とは可能的なものが現実的なものに発展することであるとアリストテレスは考えた。 たとえば、まだ花でないものとしての種子(可能的なもの)は、発展することで花(現実的なもの)となる。このような時に前者を「デュナミス」、後者を「エネルゲイア」と呼ぶ。
この両概念は「質料」と「形相」の概念とも関係している。
形相と結びつきうるものとしての質料(可能態)は、すでに両者の結びついた個物(現実態)として現実に存在するものとなる。
さらに、その可能性を完全に実現して、その目的に到っている状態のことを「エンテレケイア」と呼んだ。可能性(可能態)に対する実現化ゆえ、これは「デュナミス」と対になる語である。即ち、デュナミスはエネルゲイアと、さらにはエンテレケイアと相対を成す概念であると言える。
エネルゲイア(希: energeia)とは、アリストテレスによって提唱された哲学用語であり、アリストテレス哲学の中心をなす概念である。 「現実態」、「現勢態」、「顕勢態」、「現実性」、「実現」、「活動」などと訳される。
アリストテレスによると、おおよそ全ての生成と呼ばれるものは、デュナミス(希: dynamis可能態、可能性)として存在するものが一定の目的に向かい、目的を実現する過程をエネルゲイアと呼ぶ。
例として、建築職人は建築物となる可能性のあるいろいろな素材を使って、建築職人の頭の中の構想としての「家」という目的を実現する。このとき、材料があるが「家」が作られていない状態がデュナミス(可能態、可能性)であり、「家」が完成した状態が、エネルゲイア(現実態)である。
エンテレケイア(希: entelecheia、英: entelechy、独: Entelechie、仏: entéléchie)とは、哲学用語の一つ。
これはアリストテレスによって提唱された言葉であり訳語としては「完成態」、「完全現実態」、「終局態」、「終極実現状態」が割り当てられてきた。
完成された現実性という程度の意味から、生活する人の活力の一つの種類として、精神や霊魂などと同じ様に見られるようになった。
デュナミスというのが可能態という形で現実世界に存在しているというものであり、その可能態がそのものの機能を十分に発揮できた状態で存在しているというものがエンテレケイアということである。
5-8
全体としての歴史の行路の善は完璧なものであるが、これは潜勢態としての精神 Geist の全体が〔この行路を通じて〕実現されてきており、またそれが〔行路〕全体についての理性的で合理的な見解を表明しているからである。
このことの概要は論理学に関するヘーゲルの記述で与えられている。潜勢態の現実化はそれ自身として欲求され、歴史の全行程は自己充足的であり、それをより善くしうるような、いかなる付加的な善も存在しない。 潜勢態はすべて〔現実態として〕表出され終えているし、理性的で合理的かつ善なるものすべても〔現実態として〕成就され終えている。いまやついに、真と善とは平和のうちに調和しているのである。
〈了〉